遠藤の歴史

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤家の由緒

遠藤家の系譜は古く、家伝によるとそのルーツは大きく二つあります。

桓武天皇像
桓武天皇像

(一)桓武平氏千葉氏流の遠藤氏
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜りました。千葉氏流東常慶が遠藤盛数を養子に迎え、遠藤氏を呼称して美濃国に七千五百石を領しました。その子の遠藤慶隆は美濃斉藤氏、織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の合戦では東軍徳川家康に味方し、その功績により美濃郡上二万七千石藩主となりました。

(二)藤原南家工藤氏流の遠藤氏
藤原氏は、中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の代に認められ、藤原(工藤)為憲の後裔・相良維兼が、遠江守に任ぜられ遠藤氏を名乗ったことに始まります。
為憲の父は、藤原氏である常陸国司・讃岐介藤原維幾。母は桓武天皇で平家祖高望王の娘で、桓武平氏の子孫になります。

桓武天皇を祖とする(一)の遠藤氏の祖は千葉氏に婿として入った盛数となるのですが、その後は徳川家康にとりたてられて代々「但馬守」を呼称するなど幕府旗本として活躍します。

この遠藤家の本国は美濃であり、近江三上藩の藩主を務めるなど西国の家ではありますが、江戸後期には江戸に居住していたようです。

遠藤家がこの桓武天皇を祖とする「但馬守」を受領した遠藤家のどこから分かれたかという事ですが、過去帳の記載から初代の遠藤左太夫は1500年代の人物であることが分かりますので、江戸時代に入る直前の戦国期に分家したものと考えられます。

この時期の遠藤家は功が多く徳川家康に非常に取りたてられている時期ですので、始祖 左太夫が徳川家康の警護で功があり取りたてられました。

そして、「関ヶ原の戦い」「家康の警護」でも功があった遠藤家だからこそ甲賀組という徳川家の中でも重要な任務を任されるに至ったと想像されます。

任務の性質上、機密性が非常に高く、名前についても全てを公式記録に残すようなことはしなかったのではないかとも容易に想像されます。

「但馬守」を受領していた遠藤家の家紋は、「一亀甲」「十曜」「月星」「三亀甲」です(「十曜」「月星」といった紋は千葉氏族の名残と思われます)。

遠藤宗家は「左三つ巴」で、家紋が異なるのもどこかで分家したためと考えられます。

但し、分家したといっても、分家の初代が功多くして特殊任務を賜り、その後、十八代にもわたって繁栄を続けていることを考えますと左太夫を祖とする遠藤家は桓武平氏の由緒を引き継ぎながらも独立した宗家となります。

※桓武天皇
天平九年(737年)-延暦二十五年三月十七日(806年4月9日)
日本の第五十代天皇〔在位:天応元年四月三日(781年4月30日)-延暦二十五年三月十七日(806年4月9日)〕。
諱は山部。崩御の後に和風諡号として日本根子皇統弥照尊が、漢風諡号として桓武天皇が贈られました。
聖武天皇の治世である天平九年(737年)、天智天皇の孫、白壁王の第一王子として誕生。白壁王は、聖武天皇の父天皇である文武天皇とは従兄弟。
天応元年四月三日(781年4月30日)には光仁天皇から譲位されて天皇位に就き、翌日の四日(5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子としました。同月十五日(5月12日)に即位の詔を宣しました。延暦二年四月十八日(783年5月23日)に、藤原乙牟漏を皇后としました。皇后との間に、安殿親王(のちの平城天皇)と神野親王(のちの嵯峨天皇)を儲けました。また、夫人藤原旅子との間には大伴親王(のちの淳和天皇)が仰せられます。

※藤原(工藤)為憲
生没年不詳
平安時代中期の貴族。藤原南家・藤原武智麻呂の子孫・藤原鎌足十二代子孫。従五位下、伊豆・駿河・甲斐の遠江権守を歴任。工藤大夫を号す。
天慶二年(939年)、常陸国における従兄弟である平将門との紛争に敗れた為憲は、平貞盛と共に度々の将門の探索をかわしながら潜伏します。天慶三年(940年)二月、「新皇」を僭称した将門の追討に官軍大将の一人として貞盛・藤原秀郷と協力して将門と戦い征伐に成功し、先に将門に襲撃され抑留されていた父の維幾を救援しました。将門追討の恩賞として木工助(宮内省の宮殿造営職である木工寮の次官)に就任しました。藤原の藤と木工の工を合わせ工藤姓を興しました。家紋「庵木瓜」の創始者。尚、為憲の祖父は、上総介・従四上の藤原清夏、母は平安京の桓武天皇の孫娘に当たり、平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇と異母兄弟に当たる「第五皇子の万多親王」(延暦七年(778年)~天長七年(830年))の子「正行王」の王女。

資料作成/行政書士 丸山 学
行政書士法人あすなろ 代表、株式会社丸山事務所 代表取締役、起業家支援団体NPO法人Jungle理事

遠藤家 家紋の由来

遠藤家の左三つ巴家紋であり、巴は文様紋の代表的なものです。

平敦盛 桓武平氏維衡流
平敦盛 桓武平氏維衡流

「ともえ(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされています。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされています。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられました。

巴紋には二つ頭巴、三つ頭巴など単に巴を用いて形づくったもの。 水に巴、剣巴など、巴に他の物を組み合わせたもの。また、角字も巴のように他紋に似せたものの三種類があります。

神紋で巴紋を使用しているのは、宇佐八幡宮をはじめ全国各地の八幡宮が神紋として使用しています。 古代の祭具である勾玉(まがたま)の形と共通する巴の形が日本人に好まれ、平安時代末から鎌倉時代前半につくられた八幡社でも、装飾に多く用いれられて、八幡宮の神紋とされました。八幡神は源頼朝の信仰が厚く、武芸の神、弓の神として祀られ、後世にいたり、神紋と見なされるようになりました。武士はこれを巴家紋として神助を受けようとしました。

左三つ巴
左三つ巴

巴紋の主な使用家は、承久二年(1220年)に成立した『愚管抄』巻第六に、平安時代の貴族である藤原実季長の子孫、西園寺実季が用いたことが記されています。

『源平盛衰記』には、木曽義仲の愛妾巴御前がこの文様を愛用していたことが記してあります。

室町時代以降の1460年代に成立した『見聞諸家紋』では、曾我氏、赤松氏、長尾氏、宇都宮氏などが載せられています。

江戸時代以降は、丹波九鬼氏、筑後有馬氏、備中板倉氏などのほかに幕臣350家ほどが用いました。
他に、琉球王国の王家第一尚氏、第二尚氏は「三つ巴」(ヒジャイグムン・左御紋)を用いています。
ヨーロッパには、三つ巴に似た「トリスケル(triskele)」という文様があり、日本では三脚巴と訳されています。

※鞆(とも)
弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具。古語では「ほむた・ほむだ」といい、鞆という字は国字。革製の丸い形で、革紐で結び つける装身具であり武具。
鞆の歴史は古く、縄文時代の出土である鷹匠埴輪と呼ばれている埴輪には、腰に鞆(とも)をつり下げたものがかたどられています。古代日本では用いられましたが、中世頃には実用では用いず、武官の儀礼用になりました。

遠藤家の家憲十ヶ条

始祖 遠藤左太夫の精神を受継ぐため、主なものを現代語訳して挙げると次のようになります。

一、皇室を尊崇し、神仏を信仰すること。
一、国家・地方の為には全力を尽くすこと。
一、慈善を旨とし、陰徳を重んずること。
一、質素を守り、勤倹の美徳を発揮すること。
一、教育は文武両道を励み、忠孝を専らにすること。
一、富豪の者との縁組は許可しないこと。
一、当主又は嗣子は、相続の前後に各国を巡回すること。
一、飲酒を慎み、畜妾はしないこと。
一、事務は一家一門にて分担すること。
一、投機事業に従事してはならないこと。

遠藤家の始祖 遠藤左太夫

遠藤家の歴史の源となる始祖 遠藤左太夫は、甲賀武士として徳川家康公にお支えしました。

養源院
養源院

石田三成らが家康公に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、鳥居元忠は千八百人の兵力で立て籠もりました。

家康公は、石田三成の伏見城明け渡しの要求を死守する為に近江瀬田城主 山岡景隆の弟景友に甲賀百人組を編成させました。

その第一陣の百名の一員として甲賀組 遠藤左太夫が駆けつけ、総勢三百名に達しました。

しかしながら、遠藤左太夫をはじめとする総勢一千八百人のほぼ全員が討死しましたが、西軍 石田三成は、三千人の討死者を出しました。

このときの伏見城の血染め畳は、家康公が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに討死者の精忠を偲ばせました。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養しました。
床板は、「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられています。

始祖 遠藤左太夫の位牌は、甲賀流忍術発祥の地である滋賀県甲賀市甲賀町の長福寺に残されています。

大手門を警護した初代 遠藤左太夫

江戸城大手門
江戸城大手門

遠藤家「甲賀組」は、徳川幕府開府より徳川将軍家 直参御目見得(旗本)としてお仕えしていました。

家康公は関ヶ原の大勝後、始祖 遠藤左太夫の戦功を称え、遠藤宗家 初代以降に左太夫を襲名させました。

また、戦死者の子弟を集めて、与力十人、同心百人からなる、甲賀組を編成させました。

その後、家康公が江戸城に入府して以来、遠藤家「甲賀組」に江戸城の本丸と大手三門を警備する大役を与えました。江戸城の本丸は、将軍の居館であるとともに、政庁でもありました。

本丸の正面大手門は、厳重に固めた三つの門からなり、順々に開けたので『大手三門』と言いました。
『大手三門』は十万石以上の譜代大名が警護しましたが、遠藤家「甲賀組」も同様にその任務を与えられました。

甲賀武士は従来より、家康公の信頼が厚く、譜代に準ずる扱いでした。
遠藤家は、直参御目見得(旗本)として将軍家の 親衛隊というべき責任ある地位でした。

将軍家の財産を管理した第十三代 遠藤左太夫

徳川幕府が江戸に開かれてより、遠藤家「甲賀組」は江戸に移住しました。

甲賀稲荷神社
甲賀稲荷神社
氏子大総代を務めた
遠藤宗家第十五代当主遠藤榮

遠藤家「甲賀組」は、徳川幕府開府より徳川将軍家 直参御目見得(旗本)としてお仕えしていました。

家康公は関ヶ原の大勝後、始祖 遠藤左太夫の戦功を称え、遠藤宗家 初代以降に左太夫を襲名させました。

また、戦死者の子弟を集めて、与力十人、同心百人からなる、甲賀組を編成させました。

昭和初期に神主であられた矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』によると、この鳩森神社も遠藤家「甲賀組」と縁のある神社で、昭和十三年(1938年)五月に神社の前に安置した神像の中から、『御修覆記』並びに『奉納、甲賀百人姓名書』が出てきました。

この文書は、弘化四年(1847年)のもので甲賀組が米と金を寄進したという記事が伝えられています。
その中に【御納戸同心 遠藤左太夫】と記されています。

これは、明治時代に高徳寺檀家総代、甲賀稲荷神社氏子大惣代を務めた遠藤宗家 第十五代当主 遠藤榮の祖父である、遠藤宗家 第十三代当主にあたります。

※御納戸同心
将軍家の金銀、衣類、調度品などを管理する職務。

遠藤家の菩提寺

遠藤家の始祖などが祀られている青山の高徳寺は遠藤家の菩提寺として遠藤家累代の墓があり、400年以上にわたって祭祀が続けられています。

浄土宗 高徳寺
浄土宗 高徳寺

高徳寺は江戸幕府の入府により徳川家康公の命にて、遠藤家「甲賀組」である遠藤宗家が開基家として天正七年(1579年)に建立しました。

その際、遠藤家「甲賀組」が信仰の対象としていた浄土宗の寺院もともに近江国の甲賀郡から江戸に移転しました。

嘉永二年(1849年)十一月、『徳川幕府寺社奉行』に録上したもののなかに、【浄土宗 京都知恩院未寂光山唯心院 高徳寺】とあり、甲賀組が幕府から給った年貢地が原宿村にあり、今では寺の年貢地になっていると記述されています。

そのことから、遠藤宗家第十五代当主 遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)等が檀家総代を務めました。

関連リンク

遠藤宗家

遠藤宗家

遠藤宗家には四百年を超す歴史があります。
遠藤宗家オフィシャルホームページは、 遠藤の歴史の始まりから、現在の遠藤 潔に繋がる原点を、わかりやすい内容にてお届け致します。
現在も息づく遠藤 潔が大切にしている『事業精神』をご理解頂けます。