遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

日枝神社

2024年06月03日
江戸城を築城したことで有名な太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。

日枝神社は、鎌倉時代初期に秩父重継がその居館のうちに奉祀した山王宮に始まる。文明年間(1469年〜86年)には太田道灌公が江戸城築城にあたり川越山王社を勧請、天正十八年(1590年)德川家康公が江戸城を居城とし、場内紅葉山の地に新社殿を造営した。

遠藤宗家の先祖が所属していた甲賀百人組は、江戸幕府に入府した德川家康公の命により、近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷へ移転)に居住した。権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。

第二代将軍德川秀忠公の江戸城大改築の際には半蔵門外、現在の国立劇場付近に遷座し、明暦三年(1657年)江戸を襲った大火「振袖火事」のため、万治二年(1659年)第四代将軍德川家綱公が赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に当てる形で、溜池を望む景勝の地、星ヶ丘に遷座し現在に至る。この地は、江戸城から見て裏鬼門に位置する。

当時、歴代德川将軍世嗣の社参絶えることなく、その都度神馬・太刀等を献じた。明治維新の東京奠都によって江戸城は皇居となり、日枝神社は皇城鎮護の神として、皇室の御崇敬殊に篤く、大正天皇御即位の当日には官幣大社の極位に列せられた。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家は、大正天皇の侍従職。曽祖母である栗原セイは、大正天皇の貞明皇后女官職として側近奉仕に従事した。大正天皇の皇室御慶事等に両名は、関わったと思われる。

昭和二十年(1945年)空襲により国宝の御社殿をはじめ、境内の建物は山王稲荷神社を残し悉く灰燼に帰しするも、氏子崇敬者の赤誠により「昭和御造営」がなされ昭和三十三年(1958年)御本殿以下の建物が完成、山王台上に再び大社の威容を拝するに至った。

昭和五十三年(1978年)江戸城内御鎮座五百年を記念して造営された宝物殿には、歴代将軍奉納の太刀を始め、数多くの宝物が収蔵されている。刀剣は国宝1口、重文十四口、朱印状十二通。他にも江戸時代の山王祭山車人形、錦絵等、全て当時の山王大権現に対する信仰の篤さを窺わせる宝物である。

日本三大祭のひとつとして、また江戸三大祭の筆頭として知られる山王祭は例年六月に行われ、江戸時代にはその神幸行列が江戸城内に入り、将軍自ら上覧されたことから天下祭と称された。隔年に行われる神幸祭では、二基の鳳輦と一基の宮神輿が、古式装束をまとった五百余名の供奉列と共に東京の中心地を巡幸する。

また、生気あふれる若水をお供えし、能「独翁」を奏する元旦の若水祭、境内の特設舞台で行われる節分豆まき、八月の箸祭、旧暦八月十五日に行われる仲秋管弦祭等、四季折々の祭典が執行されている。

※画像:日枝神社


■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である長女孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。三女里子は、遠藤武遠藤宗家第十六代当主夫人。太田道灌公は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。

■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。