遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

江戸期「日本橋」

2024年05月13日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。

太田道灌公の江戸城築城の頃は、小石川や江戸川(神田川中流)の水流を合わせ神田台と田安台の間を南流、日比谷入江に注ぐ平川であったのが、1590年(天正十八年)徳川家康公の江戸開府当初は「日比谷入江」の沿岸一帯が港として利用され、「江戸城」の築城のための資材も陸揚げされた。

築城とともに「日比谷入江」の埋立てなど、江戸の街の大改造も進められるようになり、「平川」などの河川の付け替えや、開削または埋め残しによる運河の造成が行われ、「江戸湊」の機能は現「日本橋川」沿岸をはじめ、新しい運河沿いに移されていった。

1603年(慶長八年)現「日本橋川」に「日本橋」が架けられ、のちに「五街道」の起点ともされるなど、陸運・水運の交通・物流の要衝となり、「日本橋」一帯は江戸の交易を支える商業地帯としても発展を遂げた。

遠藤宗家の先祖である遠藤左太夫が所属していた「甲賀百人組」は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見籠城の戦いで戦死した功績を徳川将軍家より受けた。1643年(寛永二十年)甲賀衆の子弟は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。

「甲賀百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮等の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。正式には甲賀組・伊賀組・根来組・廿五騎組の四組あるうちの「甲賀百人組」で、組頭として三千石クラスの旗本一名、その下に与力十騎・同心百名が付属しいて江戸城大手三ノ門を守衛した。組頭は1923年(享保八年)以降役高三千石、与力は役高現米八十石ずつ、同心は三十俵二人扶持を給与された。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の縁戚である初代山本德治郎は、1849年(嘉永二年)日本橋室町一丁目に山本山本海苔店を創業した。現在も本店のあるこの地は、1632年(寛永九年)に作成された「寛永江戸図」には「むろまち一丁目」と記載されている。

1869年(明治二年)明治天皇の京都還幸に際し、御所への東都土産のご下命を賜り、味附海苔を創製した。これを機に宮内省(庁)の御用を賜るようになった。二代目山本德治郎は千葉周作の門下生として、神田於玉ケ池の千葉道場で剣道に励み、同門であった山岡鉄舟の知遇を得ていた。

その後、明治天皇の侍従となった山岡鉄舟と二代目の親交は深く、山本海苔店の包装紙を留める四角の封函シールに「東海名産無双佳品」の文字が読み取れるが、これは鉄舟の筆によるものである。「東海の名産にしてまたとない良い品である」という意味で、山本海苔店が一年に一度販売する最上級の商品「無双佳品」はここから命名された。

※画像:初代歌川広重『五十三次名所図会 日本橋 東雲の景』1855年(安政二年)


■ 山本海苔店
遠藤宗家親戚:遠藤榮 遠藤宗家第十五代当主(宮内庁 大正天皇侍従)の妻やえ(田中利三郎とむまの長女)の兄である長男の重雄(次男:重二)の子で長女の静子は、山本海苔店の山本徳治郎元社長の妻。長男:春雄、次男:田中富雄は、元山本海苔店監査役)

■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。