遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

牧之原台地開墾

2024年05月07日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士が所属した「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)にあった。甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。

「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮等の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。

遠藤宗家と同じく德川幕府幕臣職にあった中条景昭は、1867年(慶応三年)第十五代将軍慶喜公が大政奉還後、慶喜公の身辺を危ぶんだ勝海舟らが慶喜公を警護するために精鋭隊を発足し、当代一流の剣客として精鋭隊の頭に抜擢された。

1868年(慶応四年)水戸に謹慎していた慶喜公は、側近および「精鋭隊」等に護衛されて、銚子の羽崎港から、幕府軍艦・蟠龍丸に乗船し、7日間をかけ、榎本艦隊に見守られるなか清水港に上陸、駿府の宝台院に移られた。精鋭隊は久能の地で公の御安泰を見届けて後、名を「新番組」と改め、德川家達公の静岡藩に属した。

「新番組」の士族250戸は 1869年(明治二年)勝海舟の尽力により、大井川下流域牧之原台地に約1500町歩(約15平方キロメートル)の土地を家達公から賜り、「牧之原開墾方」という職名の靜岡藩役人として、名剣士として知られていた中条景昭を隊長、大草高重を副隊長として、牧之原台地に移住した。

当時、「一望千里の荒れ野、磽确不毛、水路に乏しく、民捨てて省みざること数百年」と記録されている大変な土地であった。貿易への茶の有利性を感じていた勝海舟の提言、大草高重は献茶使としての経験と宇治で茶栽培・製茶学んだことがあったので、茶の栽培を始めた。刀を鍬に替え、勝海舟の他、山岡鉄舟、大久保利通、松岡萬の支援を得て、艱難困苦の開墾の末、4年後には、茶の初生産にこぎつけるという偉業を遂げている。

しかし、1871年(明治四年)廃藩置県により、その職・俸禄・俸禄米も失ったうえ、静岡藩からの開墾費も廃止され、政府からの家禄奉還金、わずかな自己蓄えでの、一層過酷な生活を余儀なくされていた。開墾の合間にも、武士としての嗜みを捨てず、剣術・弓術などの訓練の記録が残されている。

1879年(明治十二年)開拓の偉業・功績に対し、明治天皇から金千円を下賜された。この年に蓬莱橋が完成し、時経て、明治末期には村長となる者、藪北茶の栽培を始める者などが輩出している。手摘み、蒸籠蒸し、焙炉上での人手乾燥から茶摘みも製茶も自動機械の時代へと移ったが、茶園を守り続けた子孫達、牧之原に係わった多くの人材、茶業関係者の努力により、牧之原は日本一の茶畑として、年々歳々綠の芽を繁らせている。

※画像:隊長・中条景昭像


■ 牧之原台地
静岡県中西部、遠州地方南東部にある台地。大井川下流域と菊川に挟まれた洪積台地。現在の島田市、牧之原市、菊川市にまたがっている。米作などには向かない不毛の土地であったが、明治維新の後、無禄士族対策のため、牧之原台地に多くの士族が入植し、開拓作業が始まった。茶樹を植えることが推奨されたため、現在のような茶畑が広がる日本一の製茶地帯になった。