遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

石神井火車站之碑

2016年11月05日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である栗原鉚三石神井村村長(現練馬区)は、1915年(大正4年)の武蔵野鉄道石神井駅(現西武鉄道池袋線の石神井公園駅)開業を記念し、五千余坪を寄付した有力地主の一人として、大正9年5月に石碑を造立した。

総高351.5cm、碑の高さ288.5cm、幅114.0cm、厚さ14.7cm。表面の上部には「石神井火車站之碑」と刻み、下部の銘文は漢文・漢詩からなり、大正・昭和初期の書家である滑川達の撰、記念碑造立主唱者の一人豊田利右衛門の書により、中野町(現中野区)の石工今井亀鶴泉が刻んだ。銘文には、近くにある石神井城・三宝寺池・長命寺などの歴史や見所を記し、鉄道完成による利便や喜びを記念している。また、背面には、石碑造立主唱者である栗原鉚三村長などが刻まれている。


【所在地】石神井公園駅南口 練馬区石神井町3-23
【建碑年】1920年(大正9年)
【原 文】
石神井火車站之碑
大正四年四月武蔵野鉄道成矣其軌道起池袋訖飯能延長十有余里石神井
駅恰当其軌路郷人挙賛之捐地五千余坪設火車站以資交通殖産之利便稽
古治承四年有豊島権守平清光従源頼朝領此地六世孫泰景属上杉管領築
城居此文明九年太田道灌率兵攻之勘解由左衛門尉泰経与其弟泰明戮力
防之不利城遂陥其廃址至今犂然可考城之北有瀦水曰三宝寺池其周五百
三十余歩清冽澂鑑冬温夏清窅邃可遊距駅少許又有東高野山長命密寺慶
安四年慶算阿闍梨所開基寺境静閴賽者雲集焉矧以距京在指顧之間春秋
佳日徜徉遊息之客常接跟踵有斯古蹟有斯浄区而車馬之便不完郷人太嗟
之今也鉄路一串不泥履而得游是僉鉄路之賜也郷人徳之輒市石鑿其縁由
眎後昆銘曰
  三宝寺池  明漪絶底  長命密寺  飛観霞啓
  鉄路貫道  人靡労髀  斯是祥禎  天秩有礼
                    滑 川 達 撰
 大正九年歳次庚申五月五日       豊田利右衛門書
                        今井亀鶴泉刻

【訳 文】
(原文)石神井火車站の碑
 大正四年四月、武蔵野鉄道成れり。其の軌道、池袋に起こり飯能に訖る、延長十有余里。石神井駅、恰も其の軌路に当たる。郷人挙って之に賛し、地を捐つること五千余坪。火車站を設けて以て交通殖産の利便に資す。

(訳文)石神井駅の碑
 大正4年(1915年)4月、武蔵野鉄道が完成した。その線路は、池袋を起点として飯能に至る、全長10里(約40km)余り。石神井の宿場町はちょうどその経路に当たる。住民はみんなこの計画に協力して、5000坪(約1万6500平方m)余りの土地を寄付した。鉄道の駅を設けて、交通の便をよくし、産業を発展させようとしたのである。


(原文)古を稽うるに、治承四年、豊島権守平清光有りて、源頼朝に従いて此の地を領す。六世の孫泰景、上杉管領に属して城を築きて此に居おる。文明九年、太田道灌、兵を率いて之を攻む。勘解由左衛門尉泰経、其の弟泰明と力を戮せて之を防ぐも利あらず、城遂に陥る。其の廃址、今に至るまで犂然りぜんとして考すべし。

(訳文)振り返ってみると、治承4年(1180年)、平家の流れを汲む権守の豊島清光が、源頼朝に従って戦い、この土地を手に入れた。その6代の孫泰景は、関東管領上杉氏の配下として、ここに城を築いて本拠地とした。文明9年(1477年)、太田道灌が兵を率いてこの城を攻めた。勘解由左衛門尉であった豊島泰経は、弟の泰明と共に防戦したが、形勢は不利、とうとう落城してしまった。その城跡は、現在に至るまではっきりとわかるように残っている。


(原文)城の北に瀦水有り、三宝寺池と曰う。其の周五百三十余歩、清冽たる澂鑑なり。冬は温かく夏は清しく、窅邃として遊ぶべし。駅を距たること少し許りなり。又、東高野山長命密寺も有り。慶安四年、慶算阿闍梨の開基する所。寺境静閴、賽者雲集す。矧んや、京を距たること指顧の間に在るを以ってをや。春秋の佳日、徜徉遊息の客、常に跟踵を接せん。

(訳文)城の北には池があって、その名を三宝寺池という。周囲は530歩(約950m)余り、清らかで冷たい水が鏡のように透き通っている。付近は冬は温かく夏は涼しく、ひっそりと落ち着いていて、行楽にはもってこい。町からは少ししか離れていない。また、東高野山長命密寺もある。慶安4年(1651年)に慶算阿闍梨が開基した寺院で、静まりかえった境内に、参拝客があちこちから集まってくる。まして、東京からわずかな距離にあるとなれば、春秋のよい日和には、ぶらぶらやってきてのんびりする人々が、いつだって引きも切らないことだろう。


(原文)斯に古蹟有り、斯に浄区有り。而るに車馬の便、完からず。郷人太だ之を嗟く。今や鉄路一串して、履を泥せずして游ぶを得たり。是れ僉、鉄路の賜なり。郷人之を徳とし、輒ち石を市かい其の縁由を鑿ちて後昆に眎す。

(訳文)古い城跡があり、気持ちのよい寺院もある。なのに交通の便が欠けていて、住民はそれをとても残念に思っていた。ところが、今や鉄道が直結して、足元を汚さないでもやって来ることができる。これはまったく、鉄道のおかげである。住民は感謝して、そこで石を買い求めてその由緒を彫って書き記し、子孫に示すことにした。


(原文)銘に曰わく、
三宝寺池、明漪底を絶ち
長命密寺、飛観霞に啓く
鉄路は道を貫き、人は髀を労する靡なし
斯れ是れ祥禎、天、有礼を秩ついず

(訳文)末尾に添える詩
三宝寺池のさざ波はきらきらと輝き、底がどこだか見えないほど
長命密寺のお堂や塔は天高くそびえ、霞の中から顔をのぞかせている
鉄道が一気につながって、人々は足の疲れから解放された
これはすばらしいことがありそうだ、天のめぐり合わせなのだから

【鉄 道】
武蔵野鉄道(現西武池袋線)
1915年(大正4年)4月15日  武蔵野鉄道開通当時
池袋方面:石神井-練馬-東長崎-池袋
飯能方面:石神井-保谷-東久留米-所沢-小手指-元狭山-豊岡町-仏子-飯能


■ 栗原鉚三
旧上石神井村の名主。三宝寺檀家総代。
石神井村村長 1916年~1932年(大正5年11月21日~昭和7年9月30日)
≪ 石神井村沿革 ≫
1872年(明治4年)東京府へ編入。新宿口第22区(谷原・田中)、第18区(石神井・関)に属す。1873年(明治6年)朱引外大小区改正により東京府第8大区7小区(谷原・田中)、8小区(石神井・関)にそれぞれ改称。1878年(明治11年)郡区町村編制法施行により東京府北豊島郡の所属となり、谷原村・田中村、下石神井村、上石神井村・竹下新田・関村の3つの戸長役場が定められた。1889年(明治22年)町村制施行に伴う合併(明治の大合併)上石神井村、下石神井村、谷原村、田中村(田中新田を含む)、関村の5村に加えて上土支田村を合併し東京府北豊島郡石神井村となる。(各村は大字となる)1891年(明治24年)大字上土支田を分離。石神井村大字上土支田は大泉村大字上土支田となる。1932年(昭和7年)板橋区成立。東京市が隣接5郡(豊多摩郡・北豊島郡・荏原郡・南足立郡・南葛飾郡)82町村を編入。練馬地区には練馬派出所と石神井派出所が設置。後に、練馬派出所は練馬支所、石神井派出所は石神井出張所へと昇格。石神井村は7町に分立し、石神井谷原町(旧:谷原村、現:谷原、高野台、富士見台)、石神井北田中町(旧:田中新田、現:三原台)、石神井南田中町(旧:田中村の田中新田を除く、現:南田中)、上石神井町(旧:上石神井村、現:上石神井、石神井台)、下石神井町(旧:下石神井村、現:下石神井、石神井町、上石神井南町)、石神井関町(旧:関村、竹下新田、現:関町北、関町南、関町東)、石神井立野町(旧:上石神井村立野の飛地、現:立野町)、1943年(昭和18年)東京都制が施行。旧石神井村は東京都板橋区に属す。1947年(昭和22年)練馬区独立。

石神井郵便局局長 1922年(大正11年)
≪ 石神井郵便局沿革 ≫
1922年(大正11年)請願による3等郵便局として開局。(下石神井1315番地・現在の石神井町3丁目20番)1924年(大正13年)集配業務を開始。1927年(昭和2年)電話通話事務を開始。1927年(昭和2年)電信事務を開始。1927年(昭和2年)電話交換業務を開始。1937年(昭和12年)2等局に昇格。等級制は昭和16年勅令第95号(1941年2月1日施行)により廃止。1947年(昭和22年)下石神井2丁目1217番地(現・石神井町6丁目1番)に電話分室を設置。1949年(昭和24年)郵政省・電気通信省発足により電信電話事務を分離。1951年(昭和26年)下石神井2丁目1301番地(現・石神井公園駅前郵便局)に移転。1956年(昭和31年)電話通話事務の取扱を開始。1957年(昭和32年)和文電報受付事務の取扱を開始。1960年(昭和35年)下石神井2丁目1365番地(現・石神井町2丁目8番)に分室を設置(郵便業務)。1964年(昭和39年)現在地に新築移転。1999年(平成11年)外国通貨の両替および旅行小切手の売買に関する業務取扱を開始。2007年(平成19年)民営化に伴い、併設された郵便事業石神井支店に一部業務を移管。2012年(平成24年)日本郵便株式会社の発足に伴い、郵便事業石神井支店を石神井郵便局に統合。2016年(平成28年)ゆうゆう窓口の24時間営業を廃止。