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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
遠藤宗家 甲賀百人組由緒
2024年01月01日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士が所属した「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)にあった。甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。
「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮等の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。
忍者としての具体的な活動を確認できる国内最古の記録は、応安年間(1368年~1375年)頃に書かれた『太平記』である。ここでは、「忍び」が石清水八幡宮の社殿に火をつけたことが、記述されている。その他、「くさ」「かまり」「透波すっぱ」「乱波らっぱ」などの忍者を指す呼称を戦国時代の記録に見ることができる。「忍者」という呼び方は昭和30年代に使われ始めたごく最近の呼称である。
忍者を指す語としてよく使われる「しのび」は、鎌倉時代には間諜ではなく、窃盗行為を意味する語であった。エンタメ世界の忍者と同じく、ホンモノの忍者もまた、隠れて盗むという活動と密接な関係があった。さらに、海外でNINJAが知られるより遥か前に、忍者の存在を海外に伝えた言葉でもあった。宣教師が日本語をポルトガル語で解説した『日葡辞書』に「Xinobi」の記載があるほか、『朝鮮王朝実録』の記録にも、博多に「時老未(シノミ)」が住むと記述されている。
これらの呼称は忍者の戦術的行動と深く関わっており、『北条五代記』では草むらに臥して行う情報収集や夜道の案内を「くさ(草)」や「かまり(屈)」と呼んでいる。隠れて情報収集に徹するだけではなく、敗走したと見せかけて敵を誘い込み、隠れていた別の「くさ」が敵の背後をとってはさみうちに転じるといった戦法をとる場合もあった。「透波」は素行が悪く、言動に整合性がない嘘つき、「乱波」は騒がしく動き回ることで敵を翻弄するといった意味合いを持つ呼称である。
戦国時代は、忍者たちが最も多彩な役割を担った時代といえる。常に敵と隣り合わせの戦国大名は、場合によっては数百人規模で忍者としての戦力を揃え、戦に際して様々な任務を与えていた。前述の「くさ(草)」で触れた潜伏、そしてかがり火を用いた夜間の警備や、道の封鎖による補給線遮断が挙げられる。その他、敵地へ潜入しての放火や敵の城に侵入し、混乱に乗じて城そのものを占拠してしまう「城乗っ取り」も行った。こうした任務には高い専門性を要するものが含まれ、危険が伴った。
忍者として特に有名な甲賀、伊賀は、大名による支配に依存しない独自のコミュニティを構築して自治を行い、外からの侵略に対して待ち伏せや先回り、夜討といったゲリラ的戦術で撃退することもあった。
遠藤宗家が所属していた甲賀百人組は、与力二十人、同心百人で構成されており、甲賀出身者は与力十人と同心百人全員であった。甲賀組は関ヶ原合戦の後、伏見城籠城戦で戦死した者の子孫を中心に結成されたとされている。
しかし、それ以前の慶長二年(1597年)に、すでに郷士十名ほどが德川家康公に御目見えしていた。その十名とは、後に与力となった者たちのことである。慶長五年、山岡道阿弥の披露によって再び家康公に謁見した。德川家康公会津出陣後は、関西の守りを命じられた。石田三成挙兵後は、地侍を引き連れて伏見城に籠城する。鳥居元忠、遠藤宗家の遠藤左太夫らと共に戦うが、伏見城は落城した。
その後、德川家康公は京都にて郷士十名を召し、関ヶ原合戦について委細を尋ねた。その際、郷士十名には二百石ずつ、郷士一人に連なる地侍十名にも計二百石を与えた。つまり、郷士一人とその配下で計四百石であり、郷士十人分で計四千石となる。これは『德川実紀』の記述と一致する。またこの時、関東移住を打診されるが、甲賀者たちは断り甲賀在住を希望した。德川秀忠公・德川家光公上洛の際にも、京都でお目見えした。その間の慶長十九年、二十年(1619年、1620年)の大坂の陣にも、参陣している(これが後に幕府への仕官活動を展開する甲賀古士との決定的な差である)。
※画像:江戸城百人番所(皇居東御苑)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮等の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。
忍者としての具体的な活動を確認できる国内最古の記録は、応安年間(1368年~1375年)頃に書かれた『太平記』である。ここでは、「忍び」が石清水八幡宮の社殿に火をつけたことが、記述されている。その他、「くさ」「かまり」「透波すっぱ」「乱波らっぱ」などの忍者を指す呼称を戦国時代の記録に見ることができる。「忍者」という呼び方は昭和30年代に使われ始めたごく最近の呼称である。
忍者を指す語としてよく使われる「しのび」は、鎌倉時代には間諜ではなく、窃盗行為を意味する語であった。エンタメ世界の忍者と同じく、ホンモノの忍者もまた、隠れて盗むという活動と密接な関係があった。さらに、海外でNINJAが知られるより遥か前に、忍者の存在を海外に伝えた言葉でもあった。宣教師が日本語をポルトガル語で解説した『日葡辞書』に「Xinobi」の記載があるほか、『朝鮮王朝実録』の記録にも、博多に「時老未(シノミ)」が住むと記述されている。
これらの呼称は忍者の戦術的行動と深く関わっており、『北条五代記』では草むらに臥して行う情報収集や夜道の案内を「くさ(草)」や「かまり(屈)」と呼んでいる。隠れて情報収集に徹するだけではなく、敗走したと見せかけて敵を誘い込み、隠れていた別の「くさ」が敵の背後をとってはさみうちに転じるといった戦法をとる場合もあった。「透波」は素行が悪く、言動に整合性がない嘘つき、「乱波」は騒がしく動き回ることで敵を翻弄するといった意味合いを持つ呼称である。
戦国時代は、忍者たちが最も多彩な役割を担った時代といえる。常に敵と隣り合わせの戦国大名は、場合によっては数百人規模で忍者としての戦力を揃え、戦に際して様々な任務を与えていた。前述の「くさ(草)」で触れた潜伏、そしてかがり火を用いた夜間の警備や、道の封鎖による補給線遮断が挙げられる。その他、敵地へ潜入しての放火や敵の城に侵入し、混乱に乗じて城そのものを占拠してしまう「城乗っ取り」も行った。こうした任務には高い専門性を要するものが含まれ、危険が伴った。
忍者として特に有名な甲賀、伊賀は、大名による支配に依存しない独自のコミュニティを構築して自治を行い、外からの侵略に対して待ち伏せや先回り、夜討といったゲリラ的戦術で撃退することもあった。
遠藤宗家が所属していた甲賀百人組は、与力二十人、同心百人で構成されており、甲賀出身者は与力十人と同心百人全員であった。甲賀組は関ヶ原合戦の後、伏見城籠城戦で戦死した者の子孫を中心に結成されたとされている。
しかし、それ以前の慶長二年(1597年)に、すでに郷士十名ほどが德川家康公に御目見えしていた。その十名とは、後に与力となった者たちのことである。慶長五年、山岡道阿弥の披露によって再び家康公に謁見した。德川家康公会津出陣後は、関西の守りを命じられた。石田三成挙兵後は、地侍を引き連れて伏見城に籠城する。鳥居元忠、遠藤宗家の遠藤左太夫らと共に戦うが、伏見城は落城した。
その後、德川家康公は京都にて郷士十名を召し、関ヶ原合戦について委細を尋ねた。その際、郷士十名には二百石ずつ、郷士一人に連なる地侍十名にも計二百石を与えた。つまり、郷士一人とその配下で計四百石であり、郷士十人分で計四千石となる。これは『德川実紀』の記述と一致する。またこの時、関東移住を打診されるが、甲賀者たちは断り甲賀在住を希望した。德川秀忠公・德川家光公上洛の際にも、京都でお目見えした。その間の慶長十九年、二十年(1619年、1620年)の大坂の陣にも、参陣している(これが後に幕府への仕官活動を展開する甲賀古士との決定的な差である)。
※画像:江戸城百人番所(皇居東御苑)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。