遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

皇居東御苑 百人番所

2023年01月01日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士が所属した「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)にあった。甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。

4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。

4組とは、組頭が旗本譜代席の「甲賀組」と「根来組」、組頭が抱席の「二十五騎組」と「伊賀組」である。二十五騎組のみが鉄砲与力25騎で、残りの組は20騎である。鉄砲隊は一隊につき20名~50名が配備されていたことから、鉄砲百人組は特別な存在として位置付けられていた。通常の鉄砲組とは異なり、高い火力を有する独立部隊として編制されていた。

天正13年(1585年)、德川家康公に仕えていた成瀬正成の下に根来衆50名が配されたのが後の百人組の原形とされる。根来衆は後に同心100名の根来組となるが、家康公の関東入府である天正18年(1590年)後、内藤新宿に配備され、四谷の正成の指揮下で甲州路の防衛に当たった。

甲賀組は、根来組の次に古いとされる。関ヶ原の戦いで活躍した活躍した山岡景友が、伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から与力10騎と同心100名を配下としたことが、甲賀組の始まりである。

伊賀組の編成は、慶長6年(1601年)とされている。本能寺の変の際に、家康公の伊賀越えの際の道中を警護した伊賀忍者の子孫から構成された。伊賀同心組頭の服部正成(二代服部半蔵、父の初代半蔵の保長は忍者)の組下に置かれたのは、家康公の関東入府時である。

二十五騎組については、史料が乏しく由来は諸説ある。慶長7年(1602年)内藤清成が与力25騎と同心100名を預けられ、組屋敷を内藤新宿及び大久保に設けたことを始まりとする説が有力される。そのことにより、二十五騎組は別名「大久保組」とも呼ばれている。

鉄砲百人組の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警護を行った。

現在、東京都新宿区に「百人町」という町名がある。皆中稲荷神社の例大祭が隔年で行われ、江戸幕府鉄砲百人組が神社に奉納したとされる出陣式を再現している。この百人町には、伊賀組百人鉄砲隊の組屋敷があった。皆中神社の「皆中」は「みなあたる」の意味がある。

東京都新宿区霞ヶ丘町には、明治5年(1872年)まで甲賀組百人鉄砲隊の組屋敷があったことから「千駄ヶ谷甲賀町」という町名があった。鳩森八幡神社には甲賀稲荷社が合祀されているが、昔は青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座し、甲賀百人武士が崇敬していた社である。明治18年(1885年)青山練兵場設置のため、境内を鳩森八幡神社に遷座して合祀されたのである。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曾祖父である遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家(宮内庁 大正天皇侍従)は、甲賀稲荷神社の戦前氏子大惣代であった。甲賀稲荷神社は、昭和13年(1938年)5月に当社の神前に安置した随身像二軀の内、向かって左方の神像を修復した時、その胎内より次の『御修覆記』並びに『奉納、甲賀組百人姓名書』が発見された。この修覆記と共に発見された甲賀百人衆の姓名が連書されており、その中に「御納戸同心 遠藤左太夫」とあるのは、遠藤宗家第十三代当主である。

遠藤家の歴史の源となる始祖遠藤左太夫は、德川家康公が天正18年(1590年) に江戸に入府し、慶長8年(1603年) に同地に幕府をひらき、爾後260年余、甲賀百人武士(旗本・德川将軍家・直参御目見得) として日本の統治及び警備を行った。その後、明治元年(1868年) の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年) に士族となり、第十五代当主 遠藤 榮(宮内庁 大正天皇侍従)、第十六代当主 遠藤 武(陸軍省 近衛師団下士官)は、天皇陛下にお仕えした。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。