遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

日光金谷ホテル

2022年12月28日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士が所属した「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)にあった。甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。

「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮等の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。

遠藤宗家と同じく德川幕府幕臣職にあった小林家は、1700年代(元禄13年)から歴代日光奉行所の同心を勤めた家柄である。小林年保は、戊辰戦争後、德川慶喜公に従って日光から静岡県駿河に移住した。1877年(明治10年)官職を辞任した年保は、三菱に入社し、1879年(明治12年)第三十五国立銀行(現静岡銀行)の頭取となる。1889年(明治22年)日光に小林銀行を開業。小林年保は、多大な融資で金谷善一郎の金谷ホテル開業を支援した。年保は、嘗て遠江の国(現静岡県)の金谷原に50町の原野を開墾して桑や茶を植えたりした。1987年(明治20年)には、海防費として5,000円を献上し、綬章を賜った。更に1890年(明治23年)従七位に叙された。

1637年(寛永14年)日光楽人が形成された当時、金谷家当主は初代の「金谷外記忠雄」で天海僧正より御本坊楽職を拝命し、この時より笙(しょう)役に就いた。これ以来、第九代の金谷善一郎に至るまで200年余り楽人として東照宮に奉職した。

東照宮に楽人が創設されたのは、寛永の大造替が終わり、今の東照宮の建物が完成した年の翌年にあたる1637年(寛永14年)である。「東照宮奉仕者沿革史料」には同年、三代将軍家光の上意により、三方楽人(南都方)の中から「師家」と呼ばれる日光楽人の指導役数名が選ばれ、1844年(弘化元年)まで約200年の間に渡り師家は10数回京都から日光に来山し、東照宮楽人の指導にあたった。

笙を奏でる楽士第六代金谷保常(帯刀)が、1800年(寛政12年)年に作成した由緒書には、第九代金谷善一郎が1871年(明治4年)に加筆修正した金谷家代々の奉職期間および「東遊」などの伝授のために三方楽人が、日光に来山した記録が残されている。

東遊とは、雅楽の組曲。天女の舞を模したのが始まりといわれ、古代東国で流行ったことから、東遊びの舞と称される。現在でも春秋の東照宮例大祭には、演じられている。

1637年(寛永14年)東照宮雅楽の楽人となった家は 、神橋を境にした東町と西町に分散して居住させられるも、後にそのうちの四軒が西町に移された。 これが「四軒町」という町名の起こりである。戦後の住居表示法公布により、1969年(昭和44年)に四軒町、袋町、中本町、下本町が統合され「本町」となり現在に至る。

1706年(宝永3年)「東遊」が初めて日光楽人に伝授された大半の楽人が、「四軒町」に住んでおり「楽人町」とも呼ばれていた。1765年(明和2年)の西町の町並みを描いた古地図には、それぞれの家の住民の名前が書きこまれている。 金谷家は、後に住居となる「日光奉行所御殿番 小野善助」の屋敷から道路を挟んで斜め前に住んでいた。

1799年(寛政11年)楽人20名の内、上位5名が六位侍に叙せられた際、金谷家六代目当主の金谷保常(帯刀)も選ばれて因幡介に任じられた。その頃、日光奉行所で組織変更が行われ、御殿番の小野が屋敷を引き払う状況に陥ったと推測される。このような中、官位も授けられ、帯刀も許されていた金谷保常にその屋敷が与えられたと考えられる。それが、今日も残る「金谷侍屋敷」の始まりと言える。

金谷家九代目当主の金谷善一郎(金谷主税永徳の次男)は、1852年(嘉永5年)1867年(慶応3年)善一郎が15歳の時に大政奉還が行われ、東照宮は徳川幕府という後ろ盾を失った。明治新政府の改革の波は日光にも押し寄せ、「神仏分離令」により、それまで神仏混淆であった日光山は二社一寺(東照宮、二荒山神社、輪王寺)に分離された。

父の永徳を1873年(明治6年)に失い、 長男は那須郡佐久山の八木澤家の養子となったため、 善一郎は若干20歳で金谷家の家督を相続する。その頃には東照宮の状況も落ち着き、雅楽の存続も認められたため、善一郎は楽人としての役目も引き継いだ。しかし、東照宮の経済状況は江戸時代のように満ち足りたものではなく、楽人の給与も減給された。

それでも家長としての責任を果たさなければならなかった善一郎にとり大きな人生の転機 となったのは、1870年(明治3年) 日光を訪れたアメリカ人宣教医ジェームス・ ヘップバーン(ヘボン博士)との出会いである。

日光での宿として金谷家に泊まった博士は、善一郎や家族のもてなしに感銘を受け、 将来の日光を見据えて外国人のための宿の開業を善一郎に勧めた。 家計のやりくりに苦労していた善一郎は、1873年(明治6年)金谷ホテルの前身となる民宿を開業、後に金谷カテッジインと名付けた。外国人客は「金谷カテッジイン」を Samurai House (侍屋敷) と呼んでいた。現在の「金谷侍屋敷」は、2014年(平成26年)国の登録有形文化財となり、2015年(平成27年)「金谷ホテル歴史館」として一般公開されている。

もう一人善一郎の人生に大きく影響したのが、1878年(明治11年)この宿に宿泊したイギリス人旅行家イザベラ・バードである。バードも金谷家の環境やもてなしを高く評価している。同時にバードは、独特の鋭い観察力で、この当時の善一郎の生活の様子についても記述している。(著書Unbeaten Tracks in Japan:日本奥地紀行)

金谷カテッジイン開業 1873年(明治6年)から5年後の1878年(明治11年)の時点でも、善一郎は楽人として 東照宮に勤務しながら、宿業を営んでいたことから、将来、外国人のためのホテルを持ちたいと思っていたことが伺える。

後に楽人を辞し、1893年(明治26年)41 歳の時に念願の本格的な西洋式リゾートホテル「金谷ホテル」を大谷川沿いの高台に開業した。金谷のサービスや設備は、日光を訪れる多くの外国人に高い評価を受け、その名前は国の内外で知られるところとなった。

大正時代に入り日光御用邸が開設されると、日光は国内外の要人の交歓・社交の場としてさらに発展した。1922年(大正11年)英国皇太子殿下のご宿泊をかわきりに、外国王室、大正天皇、皇室のご宿泊という栄を受けるようになった。

現在の金谷ホテルでは、大正天皇即位礼饗宴の儀の際に供された「ザリガニ」を用いたスープが再現されている。国際的には食材として一般的なザリガニだが、日本では食べる習慣がほとんどない。日光には、大正天皇が使われた田母沢御用邸がある。そのわきを流れる田母沢川で日本ザリガニを大正天皇の料理番である宮内省大膳寮の秋山徳蔵主厨長は、フランス料理で用いられるザリガニを使ってスープを作ることを思いついた。1915年(大正4年)京都で開かれた大正天皇大饗の儀では、北海道の支笏湖産の「クレーム・デクルヴィッス(ザリガニのクリーム仕立てのポタージュ)」が供された。

日光田母沢御用邸は、日光出身で日光奉行所の同心を勤めた小林年保の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の三階建て部分)を移築し、その他の建物は新築される形で、1899年(明治32年)大正天皇(当時皇太子)のご静養地として造営された。その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、1918年(大正7年)大規模な増改築が行われ、1921年(大正10年)現在の姿となった。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家は、大正天皇の侍従職。曽祖母である栗原セイは、大正天皇の貞明皇后女官職として側近奉仕に従事した。そのことから、德川幕府幕臣家の子孫である遠藤榮、小林年保、金谷善一郎は、大正天皇の職務を通じて関わったと思われる。


■ 金谷ホテル
1873年(明治6年)6月開業。現存する日本最古のリゾートクラシックホテルとして、登録有形文化財に登録。近代化産業遺産に認定されている。