遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

青山百人町(北青山一~三丁目)

2022年08月12日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖が所属していた甲賀百人組は、江戸幕府に入府した徳川家康公の命により、近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷へ移転)に居住した。その際、甲賀組が信仰の対象としていた浄土宗寺院を近江国の甲賀郡から、天正七年(1579年)赤坂青山北町(現在の北青山)に高徳寺を開基家として建立した。そのことから、遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家(大正天皇侍従)等が、檀家総代を務めた。

青山百人町は、現在の善光寺周辺に位置する旧町名である。(現在の表参道駅周辺)青山百人町の周辺は、江戸時代には武家屋敷の塀に囲まれた昼でも暗いところであった。地名の由来になったのは、江戸城の本丸と大手三門を警備していた甲賀百人武士である与力、同心が、一帯を組屋敷としていたからである。

青山の地名が決まったのは、天正十八年(1590年) 徳川家康公が青山忠成に給地して以来と考えられる。徳川家康公は、譜代の功臣青山忠成を布置し、西方からの攻撃に備えた。集落は、現北青山三丁目一番の北端から北方へ原宿と称していたもので、鎌倉から奥州への宿駅であったとの伝承がある。

天正十九年(1591年) 伊賀者への一括給地があり、元文三年(1738年)八月から町方支配となり青山原宿町と唱えた。忠成邸地は本町域では、一丁目と二丁目一~八番を含み、天正十九年には二丁目七・八番間の道路両側が伊賀者の一括給地になった。元和九年(1623年) 青山家は忠成の子忠俊が将軍家光公の怒りにあい、邸地所領を没収され、忠成四男の幸成がその屋敷を受けた。

江戸城警護の百人組与力同心も忠俊から受け継いだが、寛永九年(1632年) ようやく忠俊は許され、その子の宗俊が邸地北半をえて中屋敷とした。宝永三年(1705年)善光寺(三丁目五番)が谷中から来転、先に百人組同心一括給地の場所が紀州家徳川綱教公の弟の徳川内蔵頭主税の邸地となり、上げ地となっていたところの一部で、その翌年には門前町屋もその表通りへ旧地から移転した。
 
青山百人町の星燈籠は、六月の晦日から七月の晦日まで、家々で盆灯篭を高い棹の先につけて飾る風習があった。二代将軍徳川秀忠公が、江戸城で亡くなった年から始まったとされる。年々、七夕の笹と同じで「高さ」を競うようになり、これを遠くから見ると、百人町の上にたくさんの星が出ているように見え「百人町の星燈籠」または「星提灯」と呼ばれるようになった。

七代将軍徳川家継公が目黒にお成りの帰り道、遠くからこれを目にして、お付の者に尋ねたところ「台徳院(秀忠公)さまの菩提を弔うため、甲賀百人武士の与力・同心たちが続けている」と報告を受け、遠藤宗家の先祖が所属していた甲賀百人組に報奨金を下賜された。それ以来「星燈籠」は年中行事となり、青山百人町は江戸の名所になった。歌川広重(二代)の「諸国名所百景」にも描かれ、明治初期頃まで行われていた。 

現一・二丁目裏には明治十九年(1886年) 日比谷練兵場の廃止で青山練兵場が出現し、青山三筋町はその実を失い、六軒町も僅かな存在となった。同二十四年には、一丁目一番に陸軍大学校が設けられるとともに、近衛歩兵第四連隊が霞が関から現二丁目一〇番から北方へかけての敷地に移転した。同連隊は、明治三十年から二年間、千葉県佐倉にあったが、同三十二年に再びこの地に戻った。同三十三年、府立師範が現三丁目へ移転し、青山師範と改称した。大正九年(1920年) 現三丁目の表参道が完成、青山練兵場跡の外苑は、大正十五年まで建設が続いた。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖父である遠藤武 第十六代当主遠藤宗家は、近衛捜索連隊補充隊 第七方面野戦貨物廠の下士官として、陸軍に所属した。明治一年(1868年)七月 新政府は江戸の名を東京に変えて東京府を開設し、その翌年、明治二年(1869年)三月 東京行幸において、天皇は鳳輦に乗って東京に移動した。明治二十四年(1891年)大日本帝国陸軍の近衛兵が改称されて成立した「近衛師団」は、「鳳輦供奉」と称して、天皇や皇居の警備の役割などを果たした。

かつての青山家の屋敷北側は、御烟硝蔵跡鉄砲場(徳川幕府火薬庫)であり、現在の国立競技場である。その近くにあった鉄砲場は、遠藤宗家の先祖が所属していた甲賀百人組の屋敷があった。鉄砲場の跡地は、現在の神宮外苑となっている。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。