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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
佐野良彦 サノ・トレーディング社長
2022年06月05日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚であるサノ・トレーディングの佐野良彦社長は、大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の妹君子の夫である佐野清宝石販売佐野商店社長の孫にあたる。
佐野良彦社長の先祖である江戸末期~明治初期に活躍した開成学園の前身の共立学校を創立した佐野鼎加賀金沢藩士「先祖由緒一類附」は、佐野源左衛門常世八世の孫新左衛門景政より筆を起こしている。明治28年(1895年)共立学校が開成学園と改名されてから、令和3年(2021年)学校創立150周年という節目の年を迎えた。
佐野家の過去帳の最初には「駿河国富士郡蓼原邑佐野源左衛門末裔なり」と書かれており、かつては下野佐野城(唐沢山城)の城主であった。佐野源左衛門は謡曲「鉢木」の登場人物である。「邑」は集落であり、いくつかの邑を集めて郷となっていた(郷里制)。「郷」とは奈良時代に定められた地方の行政区であり、最下位の単位(年貢の徴収に適用される単位)。それまでは「里(り)」となっていた。そののちに「郷」のもとに「邑」が定められた。
下野佐野城(唐沢山城)は、別名は栃本城、根古屋城、牛ヶ城。「関東一の山城」と称される。城跡は、国の史跡に指定されている。平成29年(2017年)には続日本100名城(114番)に選定された関東七名城の一つである。佐野市街地の北方約5キロメートルの唐沢山(247メートル)山頂を本丸として一帯に曲輪が配された連郭式山城である。戦国時代において、佐野氏第15代当主・佐野昌綱による唐沢山城の戦いで有名で、上杉謙信の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませた。関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴である。
築城は平安時代の延長5年(927年)に、藤原秀郷が従五位下・下野国押領使を叙任、関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。 天慶3年(940年)平将門による天慶の乱が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧した。この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領した。 また、一説にはこの乱を鎮圧した天慶3年から築城が開始され天慶5年(942年)に完成したと伝えられる。その後、5代にわたりここに居城した後、6代成行は足利荘に移り一時廃城となった。
平安時代末期の治承4年(1180年)9代俊綱の弟成俊は再びここに城を再興し、佐野氏を名乗った。鎌倉時代に入った建保元年(1213年)成俊は30余年の歳月をかけて城を完成させた。以上のような伝承がある一方で、最近の研究では唐沢山城の起源は15世紀後半までしか遡らないことが明らかにされている。秀郷築城が伝承された背景には、唐沢山城主の佐野氏の先祖が藤原秀郷であるからであるといわれる。室町時代中期の延徳3年(1491年)には佐野盛綱が城の修築を行った。
戦国時代の佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。当初、越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は、永禄2年(1559年)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。唐沢山城(佐野)は謙信においては関東における勢力圏の東端であり、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、特に重要視されたと考えられている。
昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、一族間で「唐沢山天正の乱」と呼ばれる争いが起こった。これにより佐野氏は上杉氏と決別するに至った。天正4年(1576年)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵をもってこの城を攻めたが、一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により上杉軍を撤退させた。それまでも9度にわたり上杉軍の攻城を受け、城主・昌綱は何度も降伏したものの、謙信を大いに手間取らせた。この堅固さは評判となり関東一の山城と賞賛された。
上杉氏と決別し孤立化した佐野氏は、天正15年(1587年)に北条氏康の五男・氏忠を養子に迎え北条氏と和議を結んだ。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、当主の佐野房綱は豊臣方に付き城内の北条勢を一掃した。文禄2年(1593年)豊臣氏家臣富田一白の二男・信種を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り佐野信吉と名乗った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信吉は徳川家康方に付き3万5千石の旧領を安堵され佐野藩が成立した。慶長7年(1602年)麓に佐野城が築かれ平安時代より続いた唐沢山城はその歴史に幕を閉じた。廃城に至った説として、江戸に火災があったとき、山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買ったと言う話がある。また、江戸から20里(80キロメートル)以内の山城は禁令されていたとの説もある。
※画像:唐沢山城神社(本丸跡)
【 別 名 】 栃本城、根古屋城、牛ヶ城
【 城 郭 】 連郭式山城
【 天 守 】 無し
【 築城主 】 藤原秀郷
【 築城年 】 延長5年(927年)
【 改修者 】 佐野成俊、佐野盛綱
【 城 主 】 佐野氏
【 廃 城 】 慶長7年(1602年)
【 遺 構 】 石垣、大手枡形、土塁、縦堀、堀切、土橋、復元井戸
■ 佐野良彦
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父であり大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の妹君子の夫である佐野清宝石販売佐野商店社長の孫。東京大学文学部考古学科卒、宝石商社、宝石輸入卸会社起業、21年東京大学大学院人文社会系研究科(考古学・先史時代耳飾り)卒、佐野鼎研究会、万延元年遣米使節子孫の会会員。
佐野良彦社長の先祖である江戸末期~明治初期に活躍した開成学園の前身の共立学校を創立した佐野鼎加賀金沢藩士「先祖由緒一類附」は、佐野源左衛門常世八世の孫新左衛門景政より筆を起こしている。明治28年(1895年)共立学校が開成学園と改名されてから、令和3年(2021年)学校創立150周年という節目の年を迎えた。
佐野家の過去帳の最初には「駿河国富士郡蓼原邑佐野源左衛門末裔なり」と書かれており、かつては下野佐野城(唐沢山城)の城主であった。佐野源左衛門は謡曲「鉢木」の登場人物である。「邑」は集落であり、いくつかの邑を集めて郷となっていた(郷里制)。「郷」とは奈良時代に定められた地方の行政区であり、最下位の単位(年貢の徴収に適用される単位)。それまでは「里(り)」となっていた。そののちに「郷」のもとに「邑」が定められた。
下野佐野城(唐沢山城)は、別名は栃本城、根古屋城、牛ヶ城。「関東一の山城」と称される。城跡は、国の史跡に指定されている。平成29年(2017年)には続日本100名城(114番)に選定された関東七名城の一つである。佐野市街地の北方約5キロメートルの唐沢山(247メートル)山頂を本丸として一帯に曲輪が配された連郭式山城である。戦国時代において、佐野氏第15代当主・佐野昌綱による唐沢山城の戦いで有名で、上杉謙信の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませた。関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴である。
築城は平安時代の延長5年(927年)に、藤原秀郷が従五位下・下野国押領使を叙任、関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。 天慶3年(940年)平将門による天慶の乱が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧した。この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領した。 また、一説にはこの乱を鎮圧した天慶3年から築城が開始され天慶5年(942年)に完成したと伝えられる。その後、5代にわたりここに居城した後、6代成行は足利荘に移り一時廃城となった。
平安時代末期の治承4年(1180年)9代俊綱の弟成俊は再びここに城を再興し、佐野氏を名乗った。鎌倉時代に入った建保元年(1213年)成俊は30余年の歳月をかけて城を完成させた。以上のような伝承がある一方で、最近の研究では唐沢山城の起源は15世紀後半までしか遡らないことが明らかにされている。秀郷築城が伝承された背景には、唐沢山城主の佐野氏の先祖が藤原秀郷であるからであるといわれる。室町時代中期の延徳3年(1491年)には佐野盛綱が城の修築を行った。
戦国時代の佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。当初、越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は、永禄2年(1559年)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。唐沢山城(佐野)は謙信においては関東における勢力圏の東端であり、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、特に重要視されたと考えられている。
昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、一族間で「唐沢山天正の乱」と呼ばれる争いが起こった。これにより佐野氏は上杉氏と決別するに至った。天正4年(1576年)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵をもってこの城を攻めたが、一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により上杉軍を撤退させた。それまでも9度にわたり上杉軍の攻城を受け、城主・昌綱は何度も降伏したものの、謙信を大いに手間取らせた。この堅固さは評判となり関東一の山城と賞賛された。
上杉氏と決別し孤立化した佐野氏は、天正15年(1587年)に北条氏康の五男・氏忠を養子に迎え北条氏と和議を結んだ。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、当主の佐野房綱は豊臣方に付き城内の北条勢を一掃した。文禄2年(1593年)豊臣氏家臣富田一白の二男・信種を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り佐野信吉と名乗った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信吉は徳川家康方に付き3万5千石の旧領を安堵され佐野藩が成立した。慶長7年(1602年)麓に佐野城が築かれ平安時代より続いた唐沢山城はその歴史に幕を閉じた。廃城に至った説として、江戸に火災があったとき、山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買ったと言う話がある。また、江戸から20里(80キロメートル)以内の山城は禁令されていたとの説もある。
※画像:唐沢山城神社(本丸跡)
【 別 名 】 栃本城、根古屋城、牛ヶ城
【 城 郭 】 連郭式山城
【 天 守 】 無し
【 築城主 】 藤原秀郷
【 築城年 】 延長5年(927年)
【 改修者 】 佐野成俊、佐野盛綱
【 城 主 】 佐野氏
【 廃 城 】 慶長7年(1602年)
【 遺 構 】 石垣、大手枡形、土塁、縦堀、堀切、土橋、復元井戸
■ 佐野良彦
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父であり大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の妹君子の夫である佐野清宝石販売佐野商店社長の孫。東京大学文学部考古学科卒、宝石商社、宝石輸入卸会社起業、21年東京大学大学院人文社会系研究科(考古学・先史時代耳飾り)卒、佐野鼎研究会、万延元年遣米使節子孫の会会員。