遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

甲賀二十一家

2022年02月13日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖の所属した甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。

4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたことにあるとされる。

甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。

甲賀二十一家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

長享・延徳の乱は、室町時代後期の長享元年(1487年)と延徳3年(1491年)の2度に亘って室町幕府が行った近江守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六角征伐とも称される。尚、一度目の出陣は近江国栗太郡鈎(滋賀県栗東市)に在陣したため、鈎の陣とも称される。

【 甲賀二十一家 】
山中家(柏木三家)
当主:山中十郎。著名人物:山中俊房・山中長俊・山中俊好・山中十太夫・山中俊定・山中俊正。代々に渡って、鈴鹿山警固役を務めた。

伴家(柏木三家)
当主:伴佐京介。大伴氏の末裔。鎌倉御家人の分家筋:大原家、上野家、喜多家がある。本拠地:伴中山城。著名人物:伴長信・伴五兵衛。

美濃部家(柏木三家)
当主:美濃部源吾。菅原家の末裔と言われている。子孫:美濃部達吉・美濃部亮吉・美濃部洋次・古今亭志ん生・古今亭志ん朝・池波志乃・美濃部貞功・美濃部正・美濃部直彦・美濃部ゆう・美濃部達宏がいる。

黒川家(北山九家)
当主:黒川久内。著名人物:黒川与四郎。黒川流。

頓宮家(北山九家)
当主:頓宮四方介。

大野家(北山九家)
当主: 大野宮内小輔。

岩室家(北山九家)
当主:岩室大学介。

芥川家(北山九家) -
当主:芥川左京亮。著名人物:芥川七郎兵衛・芥川清右衛門・芥川九郎左衛門。

隠岐家(北山九家)
当主:隠岐右近太夫。

佐治家(北山九家)
当主:佐治河内守。著名人物:佐治三郎、佐治敬三(サントリー第二代社長)

神保家(北山九家)
当主:神保兵内・神保城城主。著名人物:神保長治(旗本神保町屋敷)。

大河原家(北山九家)
当主:大河原源太。

大原家(南山六家)
当主:大原源三郎。著名人物:篠山景春。

和田家(南山六家)
当主:和田伊賀守。著名人物:和田惟政。

上野家(南山六家)
当主:上野主膳正。

高峰家(南山六家)
当主:高峰蔵人。

池田家(南山六家)
当主:池田庄右衛門。

多喜(滝)家(南山六家)
当主:多喜勘八郎。瀧家の一族説:中村一氏・多喜勘八・瀧飛騨守。

鵜飼家(荘内三家)
当主:鵜飼源八郎。著名人物:鵜飼勘右衛門。

内貴家(荘内三家)
当主:内貴伊賀守。

服部家(荘内三家)
当主:服部藤太夫。

画像:鈎の陣の義尚本陣真宝館跡(永正寺)

サントリー創業者の鳥井信治郎の次男として大阪で生まれたサントリー第二代の佐治敬三社長は、小学校の時に母方くにの縁者と養子縁組をして「佐治」姓となった。稲沢佐治氏の先祖は、甲賀佐治の本流 (甲賀市甲賀町 小佐治土着の豪族)が支配する隣村伊佐野在住の佐治新助に始まる。(応仁・文明頃に大野佐治の祖である佐治駿河守宗貞)

戦国時代の元亀・天正の頃、青雲の志を抱いた新助は、尾張に出て同郷 ( 旧甲賀郡大原村 )の先輩である滝川一益を頼った。一益が織田信長の重臣として大名・大大名として重用され、新助も一益の家老格として各地に奮戦していたが、本能寺の変で信長が自害した後に、重臣連中は羽柴秀吉派と反秀吉派に分かれて反目する事になる。

反秀吉派の柴田勝家は秀吉と賤ヶ岳の合戦に続き越前北之庄城にて抗戦籠城の結果、自害。滝川一益も伊勢長島で反旗を揚げて抗戦し、佐治新助が任された亀山城は篭城半年にして落城したが、その奮闘を賞されて命は助けられた。

近江国甲賀郡に居住した神保家は、徳川家康公に仕えた。日本最大の書店街として知られる東京の神保町は、主に大名屋敷や旗本屋敷、幕府関係施設等の武家地が立ち並んでおり、元禄年間(1688年~1704年)旗本神保長治の広大な屋敷前が神保小路と呼ばれていたことに因んで、明治5年(1872年)「神保町」と名付けられた。「神保」は神田・神戸のように神社の所在地の意味がある。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。