遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

法隆寺

2022年01月26日
遠藤宗家甲賀組とゆかりのある推古天皇の摂政を務めていた聖徳太子は、日本で初めての忍者とされる飛鳥時代に活躍し大伴細人を起用した。その理由は、甲賀の忍術書『忍術應義傳』において、細人を初めて「志能備(しのび・または志能便)」と呼んでいたことに由来する。これがのちの「忍び」、すなわち忍者の原型となった。

聖徳太子が建立し法隆寺は、1878年(明治11年)に貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で7世紀以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移された後、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。

第二次世界大戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている(『聖徳太子及び二王子像』や『法華義疏』などは現在も皇室所有)。

毎年1月26日は、「文化財防火デー」である。文化財防火デーの制定は、昭和24年1月26日 現存する世界最古の木造建造物である法隆寺(奈良県斑鳩町)の金堂が炎上し、壁画が焼損したことに基づいている。

この事件は国民に強い衝撃を与え、火災など災害による文化財保護の危機を深く憂慮する世論が高まり、翌昭和25年に文化財保護の統括的法律として文化財保護法が制定された。

その後、昭和29年11月3日に法隆寺金堂の修理事業が竣工し、文化財保護行政も確立するとともに、文化財保護思想の一層の強化徹底を図るために普及啓発事業が行われるようになった。

その一環として、法隆寺金堂の焼損した日であること、1月と2月が1年のうちで最も火災が発生しやすい時期であることから、昭和30年に、当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)が1月26日を「文化財防火デー」と定め、文化財を火災、震災その他の災害から守るとともに、全国的に文化財防火運動を展開し、国民一般の文化財愛護に関する意識の高揚を図っている。

昭和30年の第1回文化財防火デー以来、毎年1月26日を中心に、文化庁、消防庁、都道府県・市区町村教育委員会、消防署、文化財所有者、地域住民等が連携・協力して、全国で文化財防火運動を展開している。

令和4年1月26日(水)第68回文化財防火デーでは、瑞龍寺(富山県高岡市)や迎賓館赤坂離宮(東京都港区)などで防火訓練が実施された。

※画像:法隆寺金堂と五重塔


【 実施場所 】
場 所:瑞龍寺(富山県高岡市)
日 時:令和4年1月26日(水)13:30開始
実 施:高岡市消防本部
視察者:文化庁長官及び消防庁審議官

場 所:迎賓館赤坂離宮(東京都港区)
日 時:令和4年1月26日(水) 9:50開始
実 施:東京消防庁
視察者:総務副大臣及び文化庁次長



■ 聖徳太子
飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度を採り入れ、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立。「三経義疏」(『法華義疏』(伝推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝推古天皇21年(613年))を著し、法隆寺・四天王寺などを建立。

■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。