遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

甲賀古士

2021年08月02日
794年(延暦13年)、桓武天皇の勅命により平安京から斎王群行下向きの新しい道として阿須波道の鈴鹿関が設けられ、東国への重要な関門である甲賀には、武士たちが土着した。古代、大伴氏の一族である伴宿禰が甲賀郷長となり、この地方の豪族として在任していた。その末裔が派生して武士化し、次第に甲賀武士が形成された。

戦国時代の甲賀は、小領主達が「同名中」(どうみょうちゅう)という一族集団を形成していた。独立性が高く、甲賀には屋敷を土塁や堀で囲んで外敵に備えた城館や城砦が180以上あった。織田信長が台頭して来ると甲賀の侍衆たちは、甲賀郡を単位とした連合体を結成した。それが、甲賀郡中惣である。

室町時代後期、観音寺城に本拠を構える近江佐々木六角氏が着々と力を蓄え、室町幕府の命令を軽視あるいは無視し始めたことから、1487年(長享元年)将軍足利義尚がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に戦いが行われた(鈎の陣)。義尚が諸国の大名を動員して六角氏の本拠観音寺城に迫ると、六角高頼は幕府軍との直接対決を避けて甲賀城に移動した。

そこで義尚は、本陣を栗太郡に位置する鈎の安養寺へ移し、甲賀城を攻めてこれを落城させたが、脱出した六角高頼は配下の甲賀武士達に命じ、山中でゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。「亀六ノ法」という、高頼の考え出した戦法がある。敵が攻めてきたら、亀のごとく甲賀山中に隠れ、敵が長陣に疲れ果てるのを待って、亀が手足を出すがごとく突然現れて攻撃するものである。

その他、甲賀武士達は山中でその地の利を生かして様々な奇襲をかけ、また時には夜陰に乗じて義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、幕府軍を散々苦しめた。そのためなかなか決着はつかず、1489年(長享3年)義尚が陣中に没したため、足かけ3年にわたった戦いは終結、六角氏は生き残った。そして、この戦いに参加した五十三家の地侍達を「甲賀五十三家」と呼んだ。五十三家の中で六角氏より感状があった家もことを「甲賀二十一家」と称した。

以後、甲賀の侍衆は六角氏と行動を共にした。六角義賢が観音寺城の戦いで織田信長に敗れると、甲賀へ逃れて信長と戦うことになったが、野洲河原の戦いで甲賀の侍衆が加わった六角軍は信長に敗退した。その後も戦は続くが、やがて六角氏が没落すると甲賀は織田信長の支配下に入る。

信長の家臣の滝川一益は、甲賀出身という説もある。本能寺の変の際、信長とともに討たれた森蘭丸の弟である森忠政とその母・妙向尼を甲賀の侍衆の伴惟安が甲賀の自領で匿った。後に伴氏は森忠政の家臣となる。本能寺の変を知り、本国三河へ帰還した徳川家康の伊賀越えでは、山口光広が家康に同行していた信長の家臣の長谷川秀一の求めに応じ、実兄の多羅尾光雅とともに甲賀の侍衆などを率いて家康一行の道中を警固した。

そのことにより徳川家康公は、多羅尾氏の代官世襲を認めるなど甲賀武士を重用した。一方、甲賀古士は寛文から元禄頃、江戸幕府へ武士身分の獲得を目指して嘆願運動を行う。「甲賀五十三家」、「甲賀二十一家」は、1667年(寛文2年)『乍恐以訴状言上仕候』(おそれながらそじょうをもってごんじょうつかまつりそうろう)を幕府に提出した。

甲賀古士達は、先祖が徳川家康公や幕府に仕えて貢献したとする由緒を主張したが、この訴願は幕府に認められず、100年余り訴願は中断する。この間に従来の地域社会が変化して本家と分家の主導権争いが起こり、寛政期の訴願にも反映される。寛政期の嘆願では、寺社奉行に忍術書『萬川集海』を提出した。この行動が、江戸時代社会に「甲賀忍者」の存在を広く知らしめることになった。

幕末になると甲賀古士達は、かつての栄光を取り戻すために佐幕から倒幕へ転じ、甲賀隊を結成して小松宮彰仁親王の下で戊辰戦争に参加する。甲賀古士としての誇りをかけて訓練を重ね、庄内藩と戦った関川の戦いでは、他の諸隊から賞賛されるほど活躍した。

甲賀古士の殆どは、大政奉還後に平民としての身分に落ち着いたとされている。諜報活動をしながら山伏として守り札を売ったり、副業として『萬川集海』に記載のある忍薬(「飢渇丸」「舟不酔薬」等)やその他の薬を売り歩いたりしており、医学や製薬などに詳しかった。

1884年(明治17年)に配札禁止令が出て本業ができなくなって売薬に専念し、配置売薬をするようになった。現在も甲賀地方には医薬品やドリンク剤などの会社や工場が多く見られる。商いによって成功した一部の薬屋は、全国規模で拡大していったため、近江兄弟社や日新薬品工業株式会社など甲賀忍者の末裔によって設立された企業が多く存在している。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。

4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。

甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。これが、甲賀古士との決定的な差である。

※画像:歌川国貞『今源氏錦絵合 須磨 十二』



■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。