遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

天保武鑑

2021年07月07日
武鑑とは、江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを記した年鑑形式の紳士録である。江戸時代になってから、多数の武家が都市に集まるようになった。武士と取引を行う町人達は、それらの武家を判別する必要があった。武鑑はそのための実用書であり、また都市を訪れる人々にとってのガイドブックの役割も果たした。

大名を記載した大名武鑑、旗本を記載した旗本武鑑などがある。武家の当主の氏名・官位・家紋・石高・役職・内室・城地・格式・幕府への献上品・行列の指物・用人等が記され、携帯用の略武鑑なども出現した。1年毎に出版が行われ、役職などの移動に対応した。編集は民間の版元が行っており、江戸や京都・大坂で出版された。書店でも売られていたが、行商の武鑑売も販売していた。桜田門外の変において井伊直弼を襲った浪士たちは、武鑑を手にして大名駕籠見物の田舎侍を装ったという逸話がある。

寛永年間(1624年-1644年)にその原型が現れ、正保4年(1647年)の『正保武鑑』でその形態が整った。中期以降は江戸最大の書物問屋であった須原屋茂兵衛がほぼ独占的に出版し始めた。一方で幕府御書物師の出雲寺和泉掾も江戸出雲寺刊本を出版して対抗した。武鑑の出版には本屋仲間の許可が必要であり、許可を持たない版元は武鑑の名を隠し、役職なども記さないようにして出版した。大名の須原屋版の武鑑は四巻構成であったが、後に五巻構成となった(一、二巻大名衆、三巻御役人衆、四巻西御丸付、五巻御三家方付)。

武鑑のコレクションとしては、森鴎外の鴎外文庫(東京大学総合図書館蔵)、幸田成友の幸田文庫(慶應義塾大学図書館蔵)、野村胡堂が収集した野村本(東京大学史料編纂所蔵)が知られる。鴎外は武鑑を主要な参考資料にして『伊沢蘭軒』や『渋江抽斎』を書いた。また橋本博は江戸時代の武鑑をまとめた『大武鑑』を編纂している。また、石井良助が柏書房を発行所として『編年江戸武鑑文化武鑑』と『編年江戸武鑑文政武鑑』を刊行した。

甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛をうことにあり、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。四名の組頭の下に鉄砲与力二十騎(または二十五騎)と同心百名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟を中心に結成したとされている。『天保武鑑』では、甲賀組の遠藤宗家の所属していた鉄砲百人組が確認できる。

※画像:天保武鑑


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。