遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

橋本三郎 辯護士

2021年07月05日
遠藤 潔 第十八遠藤宗家の母方祖父である橋本三郎 辯護士は、連合国軍最高司令官総司令部 ダグラス・マッカーサー元帥に対して、早期平和的解決について陳情した。

1945年(昭和20年)8月14日は、連合国軍の1国であるアメリカ陸軍の太平洋陸軍総司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官(SCAP)に就任し、同年10月2日連合国軍最高司令官総司令部が、ポツダム宣言の執行のために東京日比谷の第一生命館に設置された。明治生命館はアメリカ極東空軍司令部として使用され、対日理事会の第1回会議は明治生命館2階の会議室で行われた。その後、1956年(昭和31年)アメリカ軍から返還された。

連合国軍最高司令官総司令部の命令の多くは、1945年(昭和20年)9月20日に出された勅令「ポツダム宣言」の受諾に伴い発する命令に関する件(昭和20年勅令第542号)に基づいて出された勅令、いわゆるポツダム命令(ポツダム勅令。日本国憲法施行後はポツダム政令)の形で公布・施行された。

その後、橋本三郎 辯護士は、日本国憲法制定の際に日本憲法擁護についての請願書25項を政府に提出した。その資料は、国立国会図書館 憲政資料室内の幣原喜重郎関係資料・幣原平和財団所蔵に保管されている。幣原喜重郎関係文書(幣原平和文庫)の主な内容 は、日本国憲法制定関係、自筆諸論文や書簡、極東軍事裁判広田被告弁護関係、ロンドン軍縮会議、ワシントン会議、幣原・モリス会談、幣原内閣などの関係資料がある。

橋本の語源は、橋詰(橋のたもと)。橋は、もともと国の内外を渡す要所である。一種の聖地であるが、後に商業や政治上の重要点となる。橋本氏は全国的に分布しているが、西日本に多い。和泉国日根野郡橋本の発祥が、橘姓の和田氏族と楠木氏族の橋本氏。和田・楠木氏族の橋本氏は、南朝の勤皇党として尽くし、湊川の敗戦後は関西地方の各地に散っていった。楠木氏族・橋本氏は、その一部が上野国に移って新田義貞に属したのち、由良氏に仕えた。上州にいまも残る橋本氏はこの系統とされる。また、上州には、清和源氏新田氏族大館氏の流れの橋本氏もある。尾張国中島・海部郡の豪族で、信長・秀吉に仕えた橋本氏も楠木一族の流れとされる。

清和源氏足利氏流桃井氏族は、南朝に味方して新田義貞の鎌倉攻めに参加したが、北陸で戦った一族が越前に土着した。その子孫に幕末の志士橋本左内が出ている。桃井義胤の後裔橋本直安十五世の孫にあたる。
  
他流では、下総国相馬郡発祥の桓武平氏将門流相馬氏族、岩城国田村郡橋本の中世の豪族田村氏の支流があり、それぞれ奥州各地に根付いた。ほかに山城国綴喜郡橋本の清和源氏支流、因幡国邑美郡橋本の山名氏系、備前の豪族日下部氏族、美作国英田郡の三星城主・橋本氏などがある。公家では、藤原北家西園寺家流の橋本氏が知られている。

【 由緒 】
①現大阪府南西部である和泉国日根郡橋本発祥の和田氏族
②ほかに清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)
③宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)
④桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)
⑤中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)


※画像:日本国憲法原本「 御名御璽 」


■ 橋本三郎
遠藤 寛 第十七代当主遠藤宗家夫人郁子の実父。士族。中央大学法学部卒、弁護士、橋本三郎法律事務所所長(東京都港区広尾 )、各種委員、各種顧問を歴任、瑞宝章受章他。親戚の長崎素介は、宮内省(現宮内庁)宮内判任官。縁戚の上島重二は、第8代三井物産社長。遠藤 寛 第十七代当主遠藤宗家夫人郁子の実母スエ子(旧姓榊)の先祖は、榊庄右衛門 長府藩毛利家家臣。

■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。