遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

伊賀百人組

2021年04月22日
遠藤宗家が属していた甲賀百人組は、德川家康公が江戸城に入府してから青山百人町にあった青山甲賀屋敷(現在の表参道駅にある善光寺周辺に位置する)、千駄ヶ谷甲賀屋敷(現在の千駄ヶ谷にある国立競技場)、青山権田原の鉄砲演習場を幕府から拝領した。

天正10年(1582年)京都でおきた「本能寺の変」の知らせを聞いた徳川家康公は、国元の三河に急いで帰国した。このとき、家康公を警護していたのが甲賀衆と伊賀衆であった。その後、家康公が江戸に入城した際、甲賀組と伊賀組はこの功績により、新たに領地を与えられた。

忍者服部半蔵率いる伊賀組は、新宿百人町伊賀屋敷(四谷伊賀町)、橋戸村(現在の大泉町)を領地としていた。橋戸村の起こりは、村の開発者が八戸あったからとする説もあるが、白子川の地形がつくる「端の瀬戸」と解した方が妥当のようである。

氷川稲荷神社は、大泉氷川神社の境内にある稲荷神社である。かつて、橋戸村を知行していた伊賀組から信仰を集めた。伊賀組が嘉永2年(1849年)に奉納した水盤と石鳥居(破損しているものの境内に残る)があり、由緒と伊賀組108名の名前が刻まれている。現在は練馬区によって有形文化財に指定されており、氷川神社の境内にはその標示が立っている。

石造の水盤は、正面上段に家紋(源氏車に宝珠)、下段に相給年番・伊賀組組頭・地方掛の役職にあった9人の氏名が彫られている。右側面には、伊賀組がこの付近の領地を与えられた経緯が刻まれている。石造の鳥居は、左右の円柱には伊賀組99人の奉納者の氏名が刻まれている。(これらは、昭和63年度区登録・平成14年度区指定)
 
また、服部半蔵が奉納した仁王像(昭和62年度区登録・平成3年度区指定)が、御嶽神社にある。仁王像は阿形と吽形の2体で、いずれも高さが約1メートルある。特に阿形像の後背には「宝永3年(1706年)十二月廿日 大垣氏 服部半蔵尉 藤原幸隆」の銘がある。当初は高松寺に奉納されていたが、明治初期に廃寺となったため、約150メートルほどにある御嶽神社へ移設された。

※画像:服部半蔵奉納の仁王像・左側/吽形像(うんぎょうぞう)、右側/阿形像(あぎょうぞう)


【 大泉氷川神社の概要 】
社 号:氷川神社
祭 神:須佐之男命、大己貴命、稲田姫命
境内社:稲荷神社(稲倉魂命)、白山社(菊理姫命)、弁天社(市杵島姫命)、御嶽神社
相 殿:愛宕神社(祭神、香具槌命、火産霊命)
住 所:練馬区大泉町5-15-5

【 練馬区教育委員会掲示による大泉氷川神社の由緒 】
当社の創立年月日は定かでありませんが、武蔵国一の宮氷川神社への崇敬の念から勧請したもので、明治維新におよび、村民はここを当村(橋戸村)の鎮守と定め、明治7年に村社となる。祭神は須佐之男命、大己貴命、稲田姫命で、相殿に愛宕神社(祭神、香具槌命、火産霊命)、境内社に稲荷神社、白山神社、弁天社、御嶽神社がある。明治13年(1880)社殿の改築が行われたが、社殿の老朽化に伴い、昭和50年にいたり鉄筋コンクリート造り、銅板葺・流造に改築された。もと村内愛宕社にあった稲荷神社は江戸時代、橋戸村に所領をもっていた伊賀組衆の守護神として祀られていたが、明治維新後、村民に下げ渡された。稲荷神社は、鳥居右手に嘉永2年(1849)伊賀組衆108名が奉納した御手洗石があります。それには、天正18年(1590)徳川家康の入府に従って、江戸周辺に給地を賜った伊賀衆の由緒が漢文で刻まれてる。同時に奉納した石鳥居は破損して境内に保存されている。境内にはそのほか昭和7年市域合併記念の石灯籠や荘氏由緒碑がある。当社は南に白子川を望む丘陵に位置し、四季を通じて深い緑につつまれている。

【 「練馬の神社」による大泉氷川神社の由緒 】
「新編武蔵風土記稿」橋戸村の項に「氷川社 村民庄忠右衛門ガ宅地ノ内ニアル小祠。祭神は在五中将ナリ。其家ニテハ。中将東国下向ノ時。庄春日江古田ト云3人ノモノ慕ヒ来リテ。此地ニ祭リシト相伝レドモ。信ズベカラズ」とある。当社は、新倉郷白子村字橋戸に土着の村民が、武蔵国一の宮氷川神社への崇敬の念から勧請奉斎したものであるが、創建年代は定かでない。「新座郡村誌」橋戸村には「氷川社、村社社地丁字形をなし、村の西南にあり」と記され、「北豊島郡誌」大泉村では「村社氷川神社、旧橋戸村の鎮守神社にして」とある。明治7年橋戸村の村社とされ、明治24年大泉村が成立すると、その村社となった。氏子は大泉村大字橋戸全部で百戸であった。(以下省略)(「練馬の神社」より)

【 「東京都神社名鑑」による大泉氷川神社の由緒 】
創立年月日は定かでないが、文永年中(一二六四-七五)といい伝えられる。当社は、新倉郷白子村字橋戸の村に土着の村民たちは常々武蔵国一の宮氷川神社の崇敬の念厚く、ために勧請奉斎せられたもので、明治維新におよび村民たちは当村の鎮守と定め、明治十三年に御社殿改築、翌十四年落成、昭和四十八年に至り明治維新百年の記念として、楠の木の植樹を行なうとともに、御社殿も年とともに老朽となったので、氏子崇敬者の総意をもって現在の鉄筋コンクリート造の御社殿に改築、昭和五十年九月落成、十月十日竣工祭執行、ならびに同夜御遷座祭をおごそかに斎行現在至る。(「東京都神社名鑑」より)


■ 服部半蔵
戦国時代から江戸時代にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍し、代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。詳細は不明であるが、忍者だったのは初代半蔵の保長だけであり、2代目以降は忍者ではなかったとされる。また、先祖は代々伊賀国花垣村余野(現伊賀市)の千賀地谷に居住し、周辺の地を治めてきた一族とされる。半蔵門の名称は、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するとする。服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていた。