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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
石神井公園
2021年03月14日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である石神井村有力地主の栗原鉚三石神井村村長は、石神井の発展に尽力した。
1912年(明治45年)に発足した現在の西武鉄道池袋線の前身である武蔵野鉄道の開通に向け、石神井公園駅駅舎敷地の五千余坪を寄付し、鉄道敷設に賛意を表した旨の碑文を刻み、その石碑は大正9年に造立された。現在、石神井公園駅 南口に「石神井火車站之碑」が建立されている。
武蔵野鉄道設立から3年目の1915年(大正4年)、池袋〜飯能間の43.7kmを開通させた。この時点で開業した駅は池袋、東長崎、練馬、石神井、保谷、東久留米、小手指(現・西所沢)、元狭山(三ヶ島村→現・狭山ヶ丘)、豊岡町(現・入間市)、仏子、飯能。駅の数は現在の半分以下しかないが、開業した年の9月1日の時刻表によると、1日8往復の全線直通運転のみで、区間列車はない。所要時間は池袋から所沢までは54〜56分、飯能には96〜129分。当時、川越鉄道の所沢〜国分寺〜新宿の列車は、接続状態でかなりの差があったが、68〜106分かかったとされる。武蔵野鉄道は、開業初年度から貨物において川越鉄道を凌駕し、3年目には旅客数でも上回っていた。
開業当時、沿線には典型的な農村風景が広がっていたが、国の近代化と鉄道の利便性の波に洗われたことで、都市化が進んでいく。1920年(大正9年)に行われた日本初の国勢調査で、長崎村(現在の豊島区西部)の人口は約3500人だったが、5年後には約4倍に急増している。関東大震災を機に、都心から郊外への移住が進んだことも大きいが、さらに5年後の1930年(昭和5年)には、人口は3万人弱にまで増えている。
石神井公園(面積61000坪、 23万㎡、 東京ドーム約 16個分)には、三宝寺池、石神井池があり、2つの池は井の頭池、善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られる。当地付近には、元々武蔵野を支配した豊島氏の居城(石神井城)が、同氏の室町時代滅亡迄在った。公園内に空堀の一部が残る。近辺には、豊島氏や豊島氏を滅ぼした遠藤宗家の縁戚である太田道灌公にまつわる遺跡や神社がある。
三宝寺池の南側は神社仏閣地帯になっていて、石神井城の鎮守として室町時代に創建された氷川神社があり、この辺りの氏神神社に指定されている。同神社は元々石神井城内にあったが、豊島氏没落後に今の場所に遷移した。池の名称の由来となり、太田道灌公が当地へ移した真言宗寺院の三宝寺(江戸期まで末寺を擁していた本寺格)、豊島(輝時)氏が建てた曹洞宗寺院の道場寺などもある。三宝寺の山門は三代将軍徳川家光が鷹狩の際に休憩に立ち寄った記録が残ることから「御成門」と呼ばれ、その横には元勝海舟邸にあった長屋門(成増駅近くにあった遊園地兎月園から移設)が設置されている。同寺は不動明王を本尊とし、多くのお堂を配し、高さ9mの十一面観音菩薩像、根本大塔(多宝塔)、白い外観の観音堂、地下にある子育千体地蔵堂(天国地獄絵図あり)、鐘楼(梵鐘が区指定有形文化財)などがある。
【 三宝寺池 】
三宝寺池には、国の天然記念物である三宝寺池沼沢植物群落がある1935年(昭和10年)。同池は古来より、武蔵野台地からの地下水が湧き出る池としてこの地にあった。それを1959年(昭和34年)に人々が散策できる公園として整備し、自然や野鳥と共存できるようにした。池は窪地にあり雑木林の土手に囲まれ、緑深い武蔵野の面影を残す。23区内とは思えない奥秩父の湖にいるような錯覚をさせる。但し年々水量が減少しており、景観維持のため、人工的に地下から揚水している。池の名称は、隣接する三宝寺に由来している。
中ノ島を中心に、カキツバタをはじめ、シャクジイタヌキモやジュンサイなどが生い茂っていた。しかし、1950年(昭和25年)代後半から都市化が進んだことや、ヨシなどの植物を周辺の人が利用しなくなったため、植生が大きく変わった。その後、貴重な水生植物を保護するために、保護活動が行なわれている。
大正期に三宝寺池の対岸の一部が日本初の100mプールとして整備され、その後、1955~87年(昭和30~62年)釣り堀となっていた部分は、1989年(平成元年)に水辺観察園として整備されている。入り口の近くにはまた「ひょうたん池」があり、ザリガニ回収などのイベントも開催されている。因みに100mプールは府立第四公衆遊泳場としてできたもので、当時開通したばかりの武蔵野鉄道が駅からプールまで無料バスを運行していた。1932年(昭和7年)ロス五輪の金メダリスト、鶴田義行や清川正二ら選手団もこの石神井プールで合宿し「石神井遊泳団」と称された。
池淵には、厳島神社(小社)、宇賀神社穴弁天、水神社(小社)などがあり、厳島神社には昭和天皇が皇太子だった頃に植えた「御手植之松」がある。三宝寺池の古称は弁天池といったが、同池にある厳島神社がかつて三宝寺配下の弁天社だったことに由来する。1996年(平成8年)に、「三宝寺池の鳥と水と樹々の音」が環境庁選定の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。
【 三宝寺池エリア 】
当地には元々武蔵野を支配した豊島氏後期の居城、石神井城があり、同氏が室町時代に滅んだ時に消失したが、今は三宝寺池の南に石神井城址碑が立っている。三宝寺池はかつて石神井川の主水源とされ、流域の豪族であった豊島氏もこの水の支配の為、池の南の台地に築城したとされている。
同碑の上は丘陵になっていて、階段で登ると左手に本郭跡、空堀や土塁の遺跡が保存されており、高い木立がそびえる広場(無名)に出る。園外になるがそこは氷川神社と鳥居をくぐれば繋がっていて、池の南側は全体が雑木林になっている。同神社は元々石神井城の鎮守として創建された。同じく園外だが池の名称の由来になった三宝寺も細道を挟んで隣接している。
1915年(大正4年)武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が開通し電化されると、当時、石神井村の栗原鉚三収入役や青年団の豊田銀右衛門団長らが中心になって、三宝寺池周辺に人工的な公園作りをした。更に池の水を崖の淵から落として、滝壺遊びができるようにした。(水を池からポンプで、高5mほどに汲み上げていた)そのことにより、行楽地として人々に親しまれるようになっていった。
同池の北側は茶屋の豊島屋、石神井公園サービスセンター、高い木立がそびえるアスレチック(遊具あり)・おべんと・くぬぎ(遊具あり)・桜広場、A地区野球場などになっている。1917年(大正6年)頃に創業した休憩所の豊島屋は、昭和天皇が皇太子時代に休息をされた。店名の由来は、豊島氏が石神井城を築いたことからであると思われる。1926年(大正15年)開園した豊島園の名は、豊島城跡に遊園地が出来た事に由来する。
同池の北西には豊島氏の伝説に因んだ殿塚、姫塚があり、同池の西はフェンスで囲われた野鳥誘致林、広場(無名)、同池南西は小さな宇賀神社上広場(通称)になっている。北端の富士街道に面する「石神井松の風文化公園」(庭球場などあり)は石神井公園とは別の練馬区立の公園であり、柵で囲われ夜7時には閉園し、年末年始も休園する。
【 石神井池 】
1934年(昭和9年)石神井池(通称ボート池)は、三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、三宝寺池とともに武蔵野の景観を保護する目的で、栗原鉚三村長の所有する田んぼに三宝寺池の湧水を引いて人工的に作られたものである。
石神井池は有料のボート池としても知られ、乗り場の近くには売店・レストランのパークス石神井店がある。池の中央よりやや西寄りに「中の島」があり、架橋されていて反対岸に渡れる。池の中にはまた三澤憲司作のモニュメントが設置されている。釣りについては三宝寺池は全面禁止だが、石神井池は禁止されているエリアと一部認められているエリアがある。
【 石神井池エリア 】
南側は木立が多く、傾斜地/高台となっていて、北側は民家が近接して道幅が狭いものの遊歩道として整備されている。南側も池沿いは遊歩道として整備が進んだ。石神井池の南西にはけやき広場(ブランコあり)があり、その南は丘陵になっていて茅葺きの旧家(中村橋から移築)や竪穴式住居跡が見られる「池淵史跡公園」、その隣に「石神井公園ふるさと文化館」がある(2つは練馬区立の施設)。同文化館には池淵遺跡で発掘された縄文土器が展示されているほか、練馬区の歴史や昭和の暮らしの風景、練馬大根の歴史などについても紹介している。けやき広場の上はまた稲荷諏訪合神社(小社)も連なる。池淵史跡公園と隣接した高台に西洋庭園風の「野草観察園」がある。同観察園は24時間オープンだが、区立池淵史跡公園は公園であるにも関わらず、夜9時半に閉鎖されてしまう。
同池の南中央やや西寄りには野外ステージがあり、土手の上は木立に囲まれてベンチなどが置かれ、池を下方に見渡せる。土手の上の細い通りを渡って南に進むと旧三井住友銀行運動場で、2012年(平成24年)から石神井公園草地広場、B地区野球・小野球場、テニスコートなどとして整備された。ここは春には八重桜の名所として知られる。また富士山が眺望できるスポットでもある。
同池の南東はふくろう広場(花壇あり)、土手を登るとくつろぎ広場がある。さらに南には高浜虚子とホトトギス一派による俳句吟行会も催された「石神井公園記念庭園」で小池もあり、庭園の土手を登ると広場(無名)になっている。因みに同記念庭園は1916年(大正5年)頃に豊田銀右衛門が「第二豊田園」として開園したもので、園内には宿泊もできる茶亭もつくられた。当時開通したばかりだった武蔵野鉄道唱歌の歌詞にも第二豊田園は出てくる。
【 武蔵野館 】
栗原鉚三村長は、1915年(大正4年)の武蔵野鉄道開業、「石神井」駅(現・石神井公園駅)開設後の観光開発に伴い、私有地を武蔵野鉄道に貸し出した。その後、約3年後に設けられた旅館である。隣接して、東側には別館「豊島館」も建てられていた。武蔵野鉄道により(「武蔵野館」の名もそれに因むものと思われる)、1934年(昭和9年)まで経営が行われていたが、同社が経営不振に陥ったため、その後は個人に売却された。以降、豊島館経営者夫の兄らが経営を行うようになり、洋風に改装したことに合わせ「石神井ホテル」に改称された。
1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦により、軍用望遠鏡の増産を強いられた保谷硝子(現HOYA)は、豊島館を社員寮として買収した。1944年(昭和19年)から、陸軍成増飛行場に接収されたが、終戦後には営業を再開した。しかし、1949年(昭和24年)には旅館業を廃業して「石神井アパート」に改称した。その後、一般向けアパートとなった。〝天才バイオリニスト〟と呼ばれた諏訪根自子、作家の檀一雄や南風原朝光ら芸術家たちが居住したこともあり、檀はここで「太宰治入水」の報にも接している。別館・豊島館より遅れて 、1977年(昭和52年)年に取り壊された。
【 見晴亭 】
武蔵野館・豊島館同様、栗原鉚三村長が貸し出した土地により、営業を開始した茶店。創業年は不明であるが、両館とほぼ同時期であったと考えられる。1935年(昭和10年)にはさまざまな文士らが訪れており、憩いの場にもなった。1937年(昭和12年)には檀一雄・太宰治らにより「青春五月党」が結成されているが、その会合の際には太宰がこの店の縁台で酒を飲んだ。店舗は 1993年(平成5年)頃に取り壊された。尚、武蔵館、豊島館、見晴亭は、かつて三宝寺池南側に並んだ形で存在していた。
【 栗原家の長屋門(名主門) 】
旧上石神井村名主の栗原仲右衛門建築。栗原家長屋門は、明治初期の建築と伝えられ、桁行7間(約12.7m)、梁間2間(約3.6m)入母屋造り、トタン葺き(当初は、茅葺き)で、軒を深く突き出した「せがい造り」は当家の高い格式を示す。現在も石神井公園の歩行ルートとして、栗原家長屋門が練馬区観光協会ガイドマップに掲載されている。
※画像:石神井公園の航空写真
■ 栗原鉚三
旧上石神井村の名主。三宝寺檀家総代。
石神井村村長 1916年~1932年(大正5年11月21日~昭和7年9月30日)
≪ 石神井村沿革 ≫
1872年(明治4年)東京府へ編入。新宿口第22区(谷原・田中)、第18区(石神井・関)に属す。1873年(明治6年)朱引外大小区改正により東京府第8大区7小区(谷原・田中)、8小区(石神井・関)にそれぞれ改称。1878年(明治11年)郡区町村編制法施行により東京府北豊島郡の所属となり、谷原村・田中村、下石神井村、上石神井村・竹下新田・関村の3つの戸長役場が定められた。1889年(明治22年)町村制施行に伴う合併(明治の大合併)上石神井村、下石神井村、谷原村、田中村(田中新田を含む)、関村の5村に加えて上土支田村を合併し東京府北豊島郡石神井村となる。(各村は大字となる)1891年(明治24年)大字上土支田を分離。石神井村大字上土支田は大泉村大字上土支田となる。1932年(昭和7年)板橋区成立。東京市が隣接5郡(豊多摩郡・北豊島郡・荏原郡・南足立郡・南葛飾郡)82町村を編入。練馬地区には練馬派出所と石神井派出所が設置。後に、練馬派出所は練馬支所、石神井派出所は石神井出張所へと昇格。石神井村は7町に分立し、石神井谷原町(旧:谷原村、現:谷原、高野台、富士見台)、石神井北田中町(旧:田中新田、現:三原台)、石神井南田中町(旧:田中村の田中新田を除く、現:南田中)、上石神井町(旧:上石神井村、現:上石神井、石神井台)、下石神井町(旧:下石神井村、現:下石神井、石神井町、上石神井南町)、石神井関町(旧:関村、竹下新田、現:関町北、関町南、関町東)、石神井立野町(旧:上石神井村立野の飛地、現:立野町)、1943年(昭和18年)東京都制が施行。旧石神井村は東京都板橋区に属す。1947年(昭和22年)練馬区独立。
石神井郵便局局長 1922年(大正11年)
≪ 石神井郵便局沿革 ≫
1922年(大正11年)請願による3等郵便局として開局。(下石神井1315番地・現在の石神井町3丁目20番)1924年(大正13年)集配業務を開始。1927年(昭和2年)電話通話事務を開始。1927年(昭和2年)電信事務を開始。1927年(昭和2年)電話交換業務を開始。1937年(昭和12年)2等局に昇格。等級制は昭和16年勅令第95号(1941年2月1日施行)により廃止。1947年(昭和22年)下石神井2丁目1217番地(現・石神井町6丁目1番)に電話分室を設置。1949年(昭和24年)郵政省・電気通信省発足により電信電話事務を分離。1951年(昭和26年)下石神井2丁目1301番地(現・石神井公園駅前郵便局)に移転。1956年(昭和31年)電話通話事務の取扱を開始。1957年(昭和32年)和文電報受付事務の取扱を開始。1960年(昭和35年)下石神井2丁目1365番地(現・石神井町2丁目8番)に分室を設置(郵便業務)。1964年(昭和39年)現在地に新築移転。1999年(平成11年)外国通貨の両替および旅行小切手の売買に関する業務取扱を開始。2007年(平成19年)民営化に伴い、併設された郵便事業石神井支店に一部業務を移管。2012年(平成24年)日本郵便株式会社の発足に伴い、郵便事業石神井支店を石神井郵便局に統合。2016年(平成28年)ゆうゆう窓口の24時間営業を廃止。
1912年(明治45年)に発足した現在の西武鉄道池袋線の前身である武蔵野鉄道の開通に向け、石神井公園駅駅舎敷地の五千余坪を寄付し、鉄道敷設に賛意を表した旨の碑文を刻み、その石碑は大正9年に造立された。現在、石神井公園駅 南口に「石神井火車站之碑」が建立されている。
武蔵野鉄道設立から3年目の1915年(大正4年)、池袋〜飯能間の43.7kmを開通させた。この時点で開業した駅は池袋、東長崎、練馬、石神井、保谷、東久留米、小手指(現・西所沢)、元狭山(三ヶ島村→現・狭山ヶ丘)、豊岡町(現・入間市)、仏子、飯能。駅の数は現在の半分以下しかないが、開業した年の9月1日の時刻表によると、1日8往復の全線直通運転のみで、区間列車はない。所要時間は池袋から所沢までは54〜56分、飯能には96〜129分。当時、川越鉄道の所沢〜国分寺〜新宿の列車は、接続状態でかなりの差があったが、68〜106分かかったとされる。武蔵野鉄道は、開業初年度から貨物において川越鉄道を凌駕し、3年目には旅客数でも上回っていた。
開業当時、沿線には典型的な農村風景が広がっていたが、国の近代化と鉄道の利便性の波に洗われたことで、都市化が進んでいく。1920年(大正9年)に行われた日本初の国勢調査で、長崎村(現在の豊島区西部)の人口は約3500人だったが、5年後には約4倍に急増している。関東大震災を機に、都心から郊外への移住が進んだことも大きいが、さらに5年後の1930年(昭和5年)には、人口は3万人弱にまで増えている。
石神井公園(面積61000坪、 23万㎡、 東京ドーム約 16個分)には、三宝寺池、石神井池があり、2つの池は井の頭池、善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られる。当地付近には、元々武蔵野を支配した豊島氏の居城(石神井城)が、同氏の室町時代滅亡迄在った。公園内に空堀の一部が残る。近辺には、豊島氏や豊島氏を滅ぼした遠藤宗家の縁戚である太田道灌公にまつわる遺跡や神社がある。
三宝寺池の南側は神社仏閣地帯になっていて、石神井城の鎮守として室町時代に創建された氷川神社があり、この辺りの氏神神社に指定されている。同神社は元々石神井城内にあったが、豊島氏没落後に今の場所に遷移した。池の名称の由来となり、太田道灌公が当地へ移した真言宗寺院の三宝寺(江戸期まで末寺を擁していた本寺格)、豊島(輝時)氏が建てた曹洞宗寺院の道場寺などもある。三宝寺の山門は三代将軍徳川家光が鷹狩の際に休憩に立ち寄った記録が残ることから「御成門」と呼ばれ、その横には元勝海舟邸にあった長屋門(成増駅近くにあった遊園地兎月園から移設)が設置されている。同寺は不動明王を本尊とし、多くのお堂を配し、高さ9mの十一面観音菩薩像、根本大塔(多宝塔)、白い外観の観音堂、地下にある子育千体地蔵堂(天国地獄絵図あり)、鐘楼(梵鐘が区指定有形文化財)などがある。
【 三宝寺池 】
三宝寺池には、国の天然記念物である三宝寺池沼沢植物群落がある1935年(昭和10年)。同池は古来より、武蔵野台地からの地下水が湧き出る池としてこの地にあった。それを1959年(昭和34年)に人々が散策できる公園として整備し、自然や野鳥と共存できるようにした。池は窪地にあり雑木林の土手に囲まれ、緑深い武蔵野の面影を残す。23区内とは思えない奥秩父の湖にいるような錯覚をさせる。但し年々水量が減少しており、景観維持のため、人工的に地下から揚水している。池の名称は、隣接する三宝寺に由来している。
中ノ島を中心に、カキツバタをはじめ、シャクジイタヌキモやジュンサイなどが生い茂っていた。しかし、1950年(昭和25年)代後半から都市化が進んだことや、ヨシなどの植物を周辺の人が利用しなくなったため、植生が大きく変わった。その後、貴重な水生植物を保護するために、保護活動が行なわれている。
大正期に三宝寺池の対岸の一部が日本初の100mプールとして整備され、その後、1955~87年(昭和30~62年)釣り堀となっていた部分は、1989年(平成元年)に水辺観察園として整備されている。入り口の近くにはまた「ひょうたん池」があり、ザリガニ回収などのイベントも開催されている。因みに100mプールは府立第四公衆遊泳場としてできたもので、当時開通したばかりの武蔵野鉄道が駅からプールまで無料バスを運行していた。1932年(昭和7年)ロス五輪の金メダリスト、鶴田義行や清川正二ら選手団もこの石神井プールで合宿し「石神井遊泳団」と称された。
池淵には、厳島神社(小社)、宇賀神社穴弁天、水神社(小社)などがあり、厳島神社には昭和天皇が皇太子だった頃に植えた「御手植之松」がある。三宝寺池の古称は弁天池といったが、同池にある厳島神社がかつて三宝寺配下の弁天社だったことに由来する。1996年(平成8年)に、「三宝寺池の鳥と水と樹々の音」が環境庁選定の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。
【 三宝寺池エリア 】
当地には元々武蔵野を支配した豊島氏後期の居城、石神井城があり、同氏が室町時代に滅んだ時に消失したが、今は三宝寺池の南に石神井城址碑が立っている。三宝寺池はかつて石神井川の主水源とされ、流域の豪族であった豊島氏もこの水の支配の為、池の南の台地に築城したとされている。
同碑の上は丘陵になっていて、階段で登ると左手に本郭跡、空堀や土塁の遺跡が保存されており、高い木立がそびえる広場(無名)に出る。園外になるがそこは氷川神社と鳥居をくぐれば繋がっていて、池の南側は全体が雑木林になっている。同神社は元々石神井城の鎮守として創建された。同じく園外だが池の名称の由来になった三宝寺も細道を挟んで隣接している。
1915年(大正4年)武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が開通し電化されると、当時、石神井村の栗原鉚三収入役や青年団の豊田銀右衛門団長らが中心になって、三宝寺池周辺に人工的な公園作りをした。更に池の水を崖の淵から落として、滝壺遊びができるようにした。(水を池からポンプで、高5mほどに汲み上げていた)そのことにより、行楽地として人々に親しまれるようになっていった。
同池の北側は茶屋の豊島屋、石神井公園サービスセンター、高い木立がそびえるアスレチック(遊具あり)・おべんと・くぬぎ(遊具あり)・桜広場、A地区野球場などになっている。1917年(大正6年)頃に創業した休憩所の豊島屋は、昭和天皇が皇太子時代に休息をされた。店名の由来は、豊島氏が石神井城を築いたことからであると思われる。1926年(大正15年)開園した豊島園の名は、豊島城跡に遊園地が出来た事に由来する。
同池の北西には豊島氏の伝説に因んだ殿塚、姫塚があり、同池の西はフェンスで囲われた野鳥誘致林、広場(無名)、同池南西は小さな宇賀神社上広場(通称)になっている。北端の富士街道に面する「石神井松の風文化公園」(庭球場などあり)は石神井公園とは別の練馬区立の公園であり、柵で囲われ夜7時には閉園し、年末年始も休園する。
【 石神井池 】
1934年(昭和9年)石神井池(通称ボート池)は、三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、三宝寺池とともに武蔵野の景観を保護する目的で、栗原鉚三村長の所有する田んぼに三宝寺池の湧水を引いて人工的に作られたものである。
石神井池は有料のボート池としても知られ、乗り場の近くには売店・レストランのパークス石神井店がある。池の中央よりやや西寄りに「中の島」があり、架橋されていて反対岸に渡れる。池の中にはまた三澤憲司作のモニュメントが設置されている。釣りについては三宝寺池は全面禁止だが、石神井池は禁止されているエリアと一部認められているエリアがある。
【 石神井池エリア 】
南側は木立が多く、傾斜地/高台となっていて、北側は民家が近接して道幅が狭いものの遊歩道として整備されている。南側も池沿いは遊歩道として整備が進んだ。石神井池の南西にはけやき広場(ブランコあり)があり、その南は丘陵になっていて茅葺きの旧家(中村橋から移築)や竪穴式住居跡が見られる「池淵史跡公園」、その隣に「石神井公園ふるさと文化館」がある(2つは練馬区立の施設)。同文化館には池淵遺跡で発掘された縄文土器が展示されているほか、練馬区の歴史や昭和の暮らしの風景、練馬大根の歴史などについても紹介している。けやき広場の上はまた稲荷諏訪合神社(小社)も連なる。池淵史跡公園と隣接した高台に西洋庭園風の「野草観察園」がある。同観察園は24時間オープンだが、区立池淵史跡公園は公園であるにも関わらず、夜9時半に閉鎖されてしまう。
同池の南中央やや西寄りには野外ステージがあり、土手の上は木立に囲まれてベンチなどが置かれ、池を下方に見渡せる。土手の上の細い通りを渡って南に進むと旧三井住友銀行運動場で、2012年(平成24年)から石神井公園草地広場、B地区野球・小野球場、テニスコートなどとして整備された。ここは春には八重桜の名所として知られる。また富士山が眺望できるスポットでもある。
同池の南東はふくろう広場(花壇あり)、土手を登るとくつろぎ広場がある。さらに南には高浜虚子とホトトギス一派による俳句吟行会も催された「石神井公園記念庭園」で小池もあり、庭園の土手を登ると広場(無名)になっている。因みに同記念庭園は1916年(大正5年)頃に豊田銀右衛門が「第二豊田園」として開園したもので、園内には宿泊もできる茶亭もつくられた。当時開通したばかりだった武蔵野鉄道唱歌の歌詞にも第二豊田園は出てくる。
【 武蔵野館 】
栗原鉚三村長は、1915年(大正4年)の武蔵野鉄道開業、「石神井」駅(現・石神井公園駅)開設後の観光開発に伴い、私有地を武蔵野鉄道に貸し出した。その後、約3年後に設けられた旅館である。隣接して、東側には別館「豊島館」も建てられていた。武蔵野鉄道により(「武蔵野館」の名もそれに因むものと思われる)、1934年(昭和9年)まで経営が行われていたが、同社が経営不振に陥ったため、その後は個人に売却された。以降、豊島館経営者夫の兄らが経営を行うようになり、洋風に改装したことに合わせ「石神井ホテル」に改称された。
1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦により、軍用望遠鏡の増産を強いられた保谷硝子(現HOYA)は、豊島館を社員寮として買収した。1944年(昭和19年)から、陸軍成増飛行場に接収されたが、終戦後には営業を再開した。しかし、1949年(昭和24年)には旅館業を廃業して「石神井アパート」に改称した。その後、一般向けアパートとなった。〝天才バイオリニスト〟と呼ばれた諏訪根自子、作家の檀一雄や南風原朝光ら芸術家たちが居住したこともあり、檀はここで「太宰治入水」の報にも接している。別館・豊島館より遅れて 、1977年(昭和52年)年に取り壊された。
【 見晴亭 】
武蔵野館・豊島館同様、栗原鉚三村長が貸し出した土地により、営業を開始した茶店。創業年は不明であるが、両館とほぼ同時期であったと考えられる。1935年(昭和10年)にはさまざまな文士らが訪れており、憩いの場にもなった。1937年(昭和12年)には檀一雄・太宰治らにより「青春五月党」が結成されているが、その会合の際には太宰がこの店の縁台で酒を飲んだ。店舗は 1993年(平成5年)頃に取り壊された。尚、武蔵館、豊島館、見晴亭は、かつて三宝寺池南側に並んだ形で存在していた。
【 栗原家の長屋門(名主門) 】
旧上石神井村名主の栗原仲右衛門建築。栗原家長屋門は、明治初期の建築と伝えられ、桁行7間(約12.7m)、梁間2間(約3.6m)入母屋造り、トタン葺き(当初は、茅葺き)で、軒を深く突き出した「せがい造り」は当家の高い格式を示す。現在も石神井公園の歩行ルートとして、栗原家長屋門が練馬区観光協会ガイドマップに掲載されている。
※画像:石神井公園の航空写真
■ 栗原鉚三
旧上石神井村の名主。三宝寺檀家総代。
石神井村村長 1916年~1932年(大正5年11月21日~昭和7年9月30日)
≪ 石神井村沿革 ≫
1872年(明治4年)東京府へ編入。新宿口第22区(谷原・田中)、第18区(石神井・関)に属す。1873年(明治6年)朱引外大小区改正により東京府第8大区7小区(谷原・田中)、8小区(石神井・関)にそれぞれ改称。1878年(明治11年)郡区町村編制法施行により東京府北豊島郡の所属となり、谷原村・田中村、下石神井村、上石神井村・竹下新田・関村の3つの戸長役場が定められた。1889年(明治22年)町村制施行に伴う合併(明治の大合併)上石神井村、下石神井村、谷原村、田中村(田中新田を含む)、関村の5村に加えて上土支田村を合併し東京府北豊島郡石神井村となる。(各村は大字となる)1891年(明治24年)大字上土支田を分離。石神井村大字上土支田は大泉村大字上土支田となる。1932年(昭和7年)板橋区成立。東京市が隣接5郡(豊多摩郡・北豊島郡・荏原郡・南足立郡・南葛飾郡)82町村を編入。練馬地区には練馬派出所と石神井派出所が設置。後に、練馬派出所は練馬支所、石神井派出所は石神井出張所へと昇格。石神井村は7町に分立し、石神井谷原町(旧:谷原村、現:谷原、高野台、富士見台)、石神井北田中町(旧:田中新田、現:三原台)、石神井南田中町(旧:田中村の田中新田を除く、現:南田中)、上石神井町(旧:上石神井村、現:上石神井、石神井台)、下石神井町(旧:下石神井村、現:下石神井、石神井町、上石神井南町)、石神井関町(旧:関村、竹下新田、現:関町北、関町南、関町東)、石神井立野町(旧:上石神井村立野の飛地、現:立野町)、1943年(昭和18年)東京都制が施行。旧石神井村は東京都板橋区に属す。1947年(昭和22年)練馬区独立。
石神井郵便局局長 1922年(大正11年)
≪ 石神井郵便局沿革 ≫
1922年(大正11年)請願による3等郵便局として開局。(下石神井1315番地・現在の石神井町3丁目20番)1924年(大正13年)集配業務を開始。1927年(昭和2年)電話通話事務を開始。1927年(昭和2年)電信事務を開始。1927年(昭和2年)電話交換業務を開始。1937年(昭和12年)2等局に昇格。等級制は昭和16年勅令第95号(1941年2月1日施行)により廃止。1947年(昭和22年)下石神井2丁目1217番地(現・石神井町6丁目1番)に電話分室を設置。1949年(昭和24年)郵政省・電気通信省発足により電信電話事務を分離。1951年(昭和26年)下石神井2丁目1301番地(現・石神井公園駅前郵便局)に移転。1956年(昭和31年)電話通話事務の取扱を開始。1957年(昭和32年)和文電報受付事務の取扱を開始。1960年(昭和35年)下石神井2丁目1365番地(現・石神井町2丁目8番)に分室を設置(郵便業務)。1964年(昭和39年)現在地に新築移転。1999年(平成11年)外国通貨の両替および旅行小切手の売買に関する業務取扱を開始。2007年(平成19年)民営化に伴い、併設された郵便事業石神井支店に一部業務を移管。2012年(平成24年)日本郵便株式会社の発足に伴い、郵便事業石神井支店を石神井郵便局に統合。2016年(平成28年)ゆうゆう窓口の24時間営業を廃止。