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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
徳川昭武 第11代水戸藩主
2021年02月21日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖は、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)である甲賀武士「鉄砲百人組」の一員であった。徳川将軍家親衛隊の一つであった「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮の参詣や鷹狩の際に警護役を担った。
1866年(慶応2年)フランス皇帝ナポレオン3世から幕府あてに、1867年(慶応3年)にパリで開催する万博への要請と元首招請について書簡が届いた。幕府は将軍慶喜公の弟、水戸藩9代藩主徳川斉昭公の18男として生まれた徳川昭武公を名代として派遣することとした。昭武公は14歳、警護役として水戸藩氏7人が選出された。忠義心も強いが頑固な攘夷論者でもある彼らの取りまとめ役として随員(=御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記))に加えられたのが、尊王攘夷論者であった渋沢栄一である。算盤に明るく、理財の念に富んでおり、その有能な実業家的手腕も期待された。
渋沢は庶務及び会計に手腕を発揮した。万博の使命を果たす傍ら、1年半ほどのパリ滞在中に、経済の理法、株式組織の実際、金融銀行の仕組みなどを調査研究した。それらが後の近代的企業制度の改正改革につながっている。この万博は、日本が初めて参加したものであった。日本からは幕府だけでなく、薩摩藩と佐賀藩が独自に参加した。薩摩藩は五代友厚などを中心に、幕府に対抗する出品をして話題を呼んだ。佐賀藩の使節には佐野常民がいた。
日本が初めて公式に参加したパリ万国博覧会は、幕府の国際社会への本格的なデビューの場であり、同時に皇帝や国王たちが集い、国益を巡る様々な思惑が入り乱れる国際外交の最前線でもあった。日本の出品物はヨーロッパの人々に強い影響を与え、ジャポニスム(日本趣味)の契機にもなった。万国博覧会の主要行事終了後、昭武公は条約を締結していたスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを歴訪し国王や大統領に謁見した。次期将軍の有力候補であった昭武公は、ヨーロッパにおける王族と同等の礼遇を受けた。
しかし、幕府の代表団が会場に到着してみると、薩摩藩が幕府とは別のブースで出展し、しかも「薩摩琉球国政府」との看板が掲げられていた。驚いた幕府代表団は直ちに撤去を要求したが、薩摩は拒否し看板も降ろさなかった。両者話し合いの結果、薩摩は呼称だけは「日本薩摩太守政府」に改めることとし、幕府は「日本大君政府」として別々に出店することで折り合った。このため来場者の目には、日本には幕府政府と薩摩政府という2つの政府が並立しているかのような印象を与えたのだった。
更に薩摩藩は独自に「薩摩琉球国勲章」を製作し、ナポレオン3世をはじめフランスや各国政府の数多くの高官に贈呈した。この勲章は、フランスで当時から現在に至るまで最高の勲章とされるレジオンドヌール勲章に形状も大きさも似ていたことから、薩摩藩が事前にフランスなど欧州の事情をよく研究して準備していたことが分かる。この様子を見た幕府の代表団は慌てて「幕府も勲章を作るように」と本国に要請したものの、すぐに作れるはずもなく、万博は閉幕してしまった。幕府が作ろうとした勲章は「葵勲章」と呼ばれるが、その直後に幕府は崩壊したため、完成することもなく幻の勲章といわれている。
日本の指導者となるために、パリ万博閉幕後も慶喜公は昭武公に留学生活を命じていた。皇帝ナポレオン3世から教育責任者として選ばれたのが、ヴィレットである。授業内容はフランス語、射撃、乗馬、画学、歴史等であった。しかし、日本から鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍の敗戦・慶喜公謹慎の知らせが届いた。昭武公は亡国のプリンスとなったのであった。昭武公はそのまま留学生活を続けるようにという兄慶喜公の指示に従い、留学を継続した。その後も続々と国内情勢や慶喜公の動向を知らせる書状が届く中、明治政府からの帰国命令が届く。昭武公や一行は情報を分析し、昭武公自身の決断で帰国が決定した。
1868年(明治元年)、昭武公は神奈川に上陸した。水戸藩主を継ぐことが内定していたことにより、水戸藩邸に入り1869年(明治一年)、東京城と名前を変えた旧江戸城で明治天皇に拝謁した。幕府はすでになく、帰国を報告する相手も兄慶喜公から、1歳年上の16歳の天皇に変わっていた。天皇は、昭武公に巡歴した各国の様子を質問し「これからしばしば参内して、実際に見聞きした各国の詳細を話すように」と命じた。昭武公は、ヨーロッパで得た知識や情報を天皇に引き継ぎ、歴史の表舞台から退場していった。
昭武公のプリンスとしての役割は終わるものの、ヨーロッパで培った交流は続いた。教育責任者であったヴィレットとは40年間にわたり文通を続けた。また、帝政崩壊によりイギリスに亡命していたウージェニー元皇后とは二度目の留学時にロンドンで再会したのを機に、折々に手紙や贈り物のやりとりを続けた。元皇后は昭武公からの贈り物に対する礼状に「あなたがパリでお過ごしになった少年時代をまだお忘れになっていらっしゃらないしるし」、「私が生きております限り、手許に置き、大事にして拝見いたします」と記し「真実の友より」という言葉で結んでいる。昭武公にとって、ヴィレットや、ともに権力の座から離れても続いたウージェニー元皇后との心の交流こそ、生涯忘れ得ぬ宝物となった。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家が終身会員である公益財団法人日仏会館は、常陸宮正仁親王殿下を総裁に戴き、歴代駐日仏国大使が会名誉総裁を務めている。日本経済近代化の祖といわれている渋沢栄一と、著名な詩人でもあった当時の駐日フランス大使ポール・クローデル等によって「日仏両国の協力によって相互の文化研究を行い交流を図り、進んでフランス語並びにフランス科学の普及を図る」を目的として、1924年(大正13年)3月7日に設立され、財団法人として認可された。以来今日まで90余年の長きにわたり、一貫してこの目的に沿って活動を続け、この間、1953年(昭和28年)に日仏文化協定が締結された際には、日仏会館はその付属書において日仏文化交流の中心機関として指定された。
※画像:パリ万国博覧会(パリ市歴史図書館所蔵)
■ 徳川昭武
清水徳川家第6代当主、水戸藩第11代(最後)藩主。第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男(庶子)、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟。生母は側室万里小路建房の六女・睦子(ちかこ、のち秋庭)。 初名:松平昭徳。字:子明。号:鑾山。諡号:節公。子は徳川武定など。正仁親王妃華子の曽祖父。嘉永6年(1853年)誕生、文久3年(1863年)上京して佐幕活動に従事。従五位下侍従・民部大輔に任官、元治元年(1864年)天狗党討伐に出陣、慶応2年(1866年))昭武と改名、清水徳川家相続、従四位下左近衛権少将、パリ万国博覧会参加、これ以後、欧州各国を歴訪するなどフランス留学、明治2年(1869年) フランスより帰国、水戸藩主に就任(水戸徳川家を相続)、版籍奉還により水戸藩知事、明治3年(1870年)、永世禄(3500石)、北海道開拓巡見、明治4年(1871年)廃藩置県、東京移住、明治7年(1874年)陸軍少尉任官、明治8年(1875年)陸軍戸山学校教官(生徒隊付)、明治9年(1876年)アメリカ万国博覧会御用掛としてアメリカへ派遣、陸軍少尉免官、フランス留学、明治14年(1881年)帰国、従三位、麝香間祗候、明治15年(1882年)大能牧場復興、小梅邸行幸、明治16年(1883年)家督を甥篤敬に譲り隠居、明治17年(1884年)戸定邸居住、明治25年(1892年)実子武定、子爵授爵(松戸徳川家の創設)、明治30年(1897年)、従二位に叙位、明治31年(1898年)水戸徳川家を後見、明治35年(1902年)正二位叙位、明治36年(1903年) 勲二等瑞宝章、明治43年(1910年)死去、従一位、勲一等瑞宝章、墓所:茨城県常陸太田市、瑞龍山。
1866年(慶応2年)フランス皇帝ナポレオン3世から幕府あてに、1867年(慶応3年)にパリで開催する万博への要請と元首招請について書簡が届いた。幕府は将軍慶喜公の弟、水戸藩9代藩主徳川斉昭公の18男として生まれた徳川昭武公を名代として派遣することとした。昭武公は14歳、警護役として水戸藩氏7人が選出された。忠義心も強いが頑固な攘夷論者でもある彼らの取りまとめ役として随員(=御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記))に加えられたのが、尊王攘夷論者であった渋沢栄一である。算盤に明るく、理財の念に富んでおり、その有能な実業家的手腕も期待された。
渋沢は庶務及び会計に手腕を発揮した。万博の使命を果たす傍ら、1年半ほどのパリ滞在中に、経済の理法、株式組織の実際、金融銀行の仕組みなどを調査研究した。それらが後の近代的企業制度の改正改革につながっている。この万博は、日本が初めて参加したものであった。日本からは幕府だけでなく、薩摩藩と佐賀藩が独自に参加した。薩摩藩は五代友厚などを中心に、幕府に対抗する出品をして話題を呼んだ。佐賀藩の使節には佐野常民がいた。
日本が初めて公式に参加したパリ万国博覧会は、幕府の国際社会への本格的なデビューの場であり、同時に皇帝や国王たちが集い、国益を巡る様々な思惑が入り乱れる国際外交の最前線でもあった。日本の出品物はヨーロッパの人々に強い影響を与え、ジャポニスム(日本趣味)の契機にもなった。万国博覧会の主要行事終了後、昭武公は条約を締結していたスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを歴訪し国王や大統領に謁見した。次期将軍の有力候補であった昭武公は、ヨーロッパにおける王族と同等の礼遇を受けた。
しかし、幕府の代表団が会場に到着してみると、薩摩藩が幕府とは別のブースで出展し、しかも「薩摩琉球国政府」との看板が掲げられていた。驚いた幕府代表団は直ちに撤去を要求したが、薩摩は拒否し看板も降ろさなかった。両者話し合いの結果、薩摩は呼称だけは「日本薩摩太守政府」に改めることとし、幕府は「日本大君政府」として別々に出店することで折り合った。このため来場者の目には、日本には幕府政府と薩摩政府という2つの政府が並立しているかのような印象を与えたのだった。
更に薩摩藩は独自に「薩摩琉球国勲章」を製作し、ナポレオン3世をはじめフランスや各国政府の数多くの高官に贈呈した。この勲章は、フランスで当時から現在に至るまで最高の勲章とされるレジオンドヌール勲章に形状も大きさも似ていたことから、薩摩藩が事前にフランスなど欧州の事情をよく研究して準備していたことが分かる。この様子を見た幕府の代表団は慌てて「幕府も勲章を作るように」と本国に要請したものの、すぐに作れるはずもなく、万博は閉幕してしまった。幕府が作ろうとした勲章は「葵勲章」と呼ばれるが、その直後に幕府は崩壊したため、完成することもなく幻の勲章といわれている。
日本の指導者となるために、パリ万博閉幕後も慶喜公は昭武公に留学生活を命じていた。皇帝ナポレオン3世から教育責任者として選ばれたのが、ヴィレットである。授業内容はフランス語、射撃、乗馬、画学、歴史等であった。しかし、日本から鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍の敗戦・慶喜公謹慎の知らせが届いた。昭武公は亡国のプリンスとなったのであった。昭武公はそのまま留学生活を続けるようにという兄慶喜公の指示に従い、留学を継続した。その後も続々と国内情勢や慶喜公の動向を知らせる書状が届く中、明治政府からの帰国命令が届く。昭武公や一行は情報を分析し、昭武公自身の決断で帰国が決定した。
1868年(明治元年)、昭武公は神奈川に上陸した。水戸藩主を継ぐことが内定していたことにより、水戸藩邸に入り1869年(明治一年)、東京城と名前を変えた旧江戸城で明治天皇に拝謁した。幕府はすでになく、帰国を報告する相手も兄慶喜公から、1歳年上の16歳の天皇に変わっていた。天皇は、昭武公に巡歴した各国の様子を質問し「これからしばしば参内して、実際に見聞きした各国の詳細を話すように」と命じた。昭武公は、ヨーロッパで得た知識や情報を天皇に引き継ぎ、歴史の表舞台から退場していった。
昭武公のプリンスとしての役割は終わるものの、ヨーロッパで培った交流は続いた。教育責任者であったヴィレットとは40年間にわたり文通を続けた。また、帝政崩壊によりイギリスに亡命していたウージェニー元皇后とは二度目の留学時にロンドンで再会したのを機に、折々に手紙や贈り物のやりとりを続けた。元皇后は昭武公からの贈り物に対する礼状に「あなたがパリでお過ごしになった少年時代をまだお忘れになっていらっしゃらないしるし」、「私が生きております限り、手許に置き、大事にして拝見いたします」と記し「真実の友より」という言葉で結んでいる。昭武公にとって、ヴィレットや、ともに権力の座から離れても続いたウージェニー元皇后との心の交流こそ、生涯忘れ得ぬ宝物となった。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家が終身会員である公益財団法人日仏会館は、常陸宮正仁親王殿下を総裁に戴き、歴代駐日仏国大使が会名誉総裁を務めている。日本経済近代化の祖といわれている渋沢栄一と、著名な詩人でもあった当時の駐日フランス大使ポール・クローデル等によって「日仏両国の協力によって相互の文化研究を行い交流を図り、進んでフランス語並びにフランス科学の普及を図る」を目的として、1924年(大正13年)3月7日に設立され、財団法人として認可された。以来今日まで90余年の長きにわたり、一貫してこの目的に沿って活動を続け、この間、1953年(昭和28年)に日仏文化協定が締結された際には、日仏会館はその付属書において日仏文化交流の中心機関として指定された。
※画像:パリ万国博覧会(パリ市歴史図書館所蔵)
■ 徳川昭武
清水徳川家第6代当主、水戸藩第11代(最後)藩主。第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男(庶子)、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟。生母は側室万里小路建房の六女・睦子(ちかこ、のち秋庭)。 初名:松平昭徳。字:子明。号:鑾山。諡号:節公。子は徳川武定など。正仁親王妃華子の曽祖父。嘉永6年(1853年)誕生、文久3年(1863年)上京して佐幕活動に従事。従五位下侍従・民部大輔に任官、元治元年(1864年)天狗党討伐に出陣、慶応2年(1866年))昭武と改名、清水徳川家相続、従四位下左近衛権少将、パリ万国博覧会参加、これ以後、欧州各国を歴訪するなどフランス留学、明治2年(1869年) フランスより帰国、水戸藩主に就任(水戸徳川家を相続)、版籍奉還により水戸藩知事、明治3年(1870年)、永世禄(3500石)、北海道開拓巡見、明治4年(1871年)廃藩置県、東京移住、明治7年(1874年)陸軍少尉任官、明治8年(1875年)陸軍戸山学校教官(生徒隊付)、明治9年(1876年)アメリカ万国博覧会御用掛としてアメリカへ派遣、陸軍少尉免官、フランス留学、明治14年(1881年)帰国、従三位、麝香間祗候、明治15年(1882年)大能牧場復興、小梅邸行幸、明治16年(1883年)家督を甥篤敬に譲り隠居、明治17年(1884年)戸定邸居住、明治25年(1892年)実子武定、子爵授爵(松戸徳川家の創設)、明治30年(1897年)、従二位に叙位、明治31年(1898年)水戸徳川家を後見、明治35年(1902年)正二位叙位、明治36年(1903年) 勲二等瑞宝章、明治43年(1910年)死去、従一位、勲一等瑞宝章、墓所:茨城県常陸太田市、瑞龍山。