遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

内海碩夫 第二海軍燃料廠電解技術官

2020年08月08日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚である第二海軍燃料廠の内海碩夫電解技術官は、戦艦大和の技術に貢献した思われる。

海軍工廠とは、艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場(工廠)のことである。ほかに海軍が直営する軍需工場としては、航空機の修理整備(末期には製造)を担当する航空本部所管の「空廠」、火薬製造・充填を担当する艦政本部所管の「火薬廠」、石炭採掘や石油精製を担当する艦政本部所管の「燃料廠」、軍服・保存食製造を担当する軍需局所管の「衣糧廠」、医薬品・医療機器の製造を担当する医務局所管の「療品廠」がある。

2020年は戦艦「大和」が進水して80年の節目の年となる。同艦は、昭和12年(1937年)11月4日に広島県呉市にあった呉海軍工廠の造船船渠(せんきょ)にて起工、昭和15年(1940年)年8月8日に進水式を迎え、「大和」と命名された。進水式典には、天皇陛下の名代として、皇族であり海軍大佐の地位にあった久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう)が臨席したものの、見物人などはおらず、建造にかかわった工廠関係者約1000人が見守るなか、厳粛に行われた。

大和が建造された呉海軍工廠は、明治22年(1889年)に設置された海軍呉鎮守府の造船施設として発足した。明治27~28年(1894~95年)の日清戦争や明治37~38(1904~05年)の日露戦争を経て施設の拡充が進み、当初は艦船の修理しかできなかった能力も順次増強され、明治40年(1907年)には当時世界最大の戦艦だった「安芸」を進水させるまでになった。また、造船施設だけでなく、軍艦に搭載する大砲や機銃、光学装置などを製造する兵器工場や火薬試験場なども併設され、横須賀工廠を上回る日本一の海軍工廠となった。呉の海軍施設で働く職工(技術系の労働者)は、日露戦争当時には3万人を超えた。

同時に都市としての呉も成熟し、明治35年(1902年)には人口6万人を抱えて市制を施行、明治42年(1909年)には人口が10万人を突破した。ワシントン軍縮条約による海軍力の制限に伴い、呉海軍工廠の規模も一時的に縮小されたが、海軍力の増強が本格化し、大和の建造プロジェクトが開始されると、工廠の規模は再び拡大された。一時、1万7000人程度まで減っていた職工が、昭和11年(1936年)には日露戦争当時と同じ3万人となり、呉市の人口も24万人まで急増した。

大和の建造は、明治から呉海軍工廠が培ってきた造船技術と高い技能を持った労働者、海軍の仕事を請け負ってきた大小の民間事業者によって支えられていた。世界最大の戦艦を起工から4年で完成させることができた背景に、そうした技術と経験の集積があった。

巨大戦艦を建造するという「ものづくり」を通じて得られた現場の力は、戦後の驚異的な経済復興を支える原動力となった。東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年(1962年)、オリンピック委員会と政府の要請を受け、大谷重工業の大谷米太郎社長がホテルニューオータニの建設に着手した。 当時、最高層の17階建てとして、柔構造理論設計を採用した。シンボルともいえる最上階の回転ラウンジの回転機構は、戦艦大和主砲塔の回転技術が応用されることで作られ、直径45mで東洋一と謳われ、東京タワー等と並ぶ名所となった。

※画像:戦艦「大和」の進水式式台。


■ 内海碩夫
遠藤武 第十六代当主遠藤宗家の実妹である正枝の当主。(長女/廣子、次女/義子)。
海軍省第二海軍燃料廠電解技術官(四日市海軍)、日産化学工業から東海硫安工業四日市工場製造部電解課長、工場長、早稲田応用化学会理事等を歴任。平成24年(2012年)9月12日永眠。海軍燃料廠:明治38年(1905年)臨時海軍煉炭製造所条例制定、山口県徳山煉炭製造所設立、大正10年(1921年)海軍燃料廠制定、昭和6年(1931年)燃料研究所設立、昭和10年(1935年)徳山海軍燃料廠九四式分解解蒸留装置完成、昭和12年(1937年)徳山海軍燃料廠九六式水添分解装置完成、昭和14年(1938年)四日市海軍燃料廠建設着工、昭和20年(1945年)徳山第三海軍燃料廠が空爆被害、昭和30年(1955年)通産省旧陸軍燃料廠跡地処理方針閣議決定、昭和32年(1957年)四日市海軍燃料廠跡地昭和四日市石油へ払下。