トップページ
プロフィール
基本理念
活動報告
資料
お問い合わせ
トップページ
>
遠藤潔の活動報告
2024年度
2023年度
2022年度
2021年度
2020年度
2019年度
2018年度
2017年度
2016年度
遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
大正天皇 即位礼
2021年01月16日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家は、大正天皇の侍従職。曽祖母である栗原セイは、大正天皇の貞明皇后女官職として側近奉仕に従事した。以下の行事に両名は、関わったと思われる。
2019年(令和元年)10月22日「令和の即位の礼」の原型となったのは、1915年(大正4年)京都御所で行われた、大正天皇の即位礼である。大正の即位礼には、特別の意味がある。それ以前の即位式は、ごく限られた人たちだけの宮中儀式であった。これに対し、大正即位礼は、初めて国民が祝賀に参加し、広く外国からも代表を招いた国際的な儀式であり、今日の「即位の礼」の原型になっている。また、明治憲法下で日本が「天皇国」としてまとまる一つの契機にもなった。
明治政府は1909年(明治42年)、天皇の即位などに関する皇室令「登極令」をつくり、初めてそれに従って大正即位礼が行われた。旧皇室典範第11条「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」の規定で、即位礼の会場は京都御所となった。
即位の礼、大嘗祭と一連の儀式を合わせた「御大礼」の大役を果たしたのは、早稲田大学総長だった大隈首相である。1898年(明治31年)首相に就任、1914年に76歳で再び首相となった。
午前は「即位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」。天皇が即位礼を行うことを神前に奉告する儀式で、当時はとても重要視された。皇居・宮中三殿の賢所に祭られる三種の神器の「鏡」は、この儀式のために京都御所に移して「春興殿」で行われた。
午後の「紫宸殿の儀」は、皇族、国会議員など国内の代表に加え、米、英、仏、露、伊などの大使、公使ら外国代表を含め、計2000人余が参列した。紫宸殿の前の庭には「萬歳」の字が刺繍された「万歳旙(ばんざいばん)」など、色鮮やかな旙(ばん=のぼり)が左右一列ずつ、計26本立てられた。紋様には、初代天皇の神武天皇東征の時、戦勝を祈って酒がめを川に沈めると、大小の魚(アユ)が浮き上がってきたという故事に基づく「酒壺」や「アユ」。神武天皇が熊野の山で道に迷った時、助けたという「八咫烏(やたがらす)」など、神武天皇神話にちなむものもあった。また、儀式の威容を整えるため、太刀、弓、盾など5種の「威儀物(いぎもの)」を持った古装束姿の男たちなどが居並んだ。
紫宸殿には、天皇が昇る「高御座(たかみくら)」が黒く輝いていた。この即位礼のために造営され、高さ6.5メートル、重さは8トン。大正天皇の2代前の孝明天皇が使った高御座が、幕末の御所大火(1854年)で焼失してしまった。このため、1868年(慶応4年)に紫宸殿で行われた明治天皇の即位式では、皇后用の「御帳台(みちょうだい)」を使った。現在の御帳台より簡素なものだった。そして、近代日本初の大正即位礼に合わせて、高御座と御帳台が新調され、令和の今日に伝わる。
大正天皇が午後3時過ぎ、真っ直ぐに立った立纓(りゅうえい)の冠に、ハゼの実で赤茶色に染め上げた黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)という束帯(宮中儀式服)姿で高御座に入り、難解な漢語調のお言葉(勅語)を朗読した。「内は邦基を固くして永く磐石の安を図り、外は国交を敦くして、共に和平の慶に頼らむとす」。天皇が即位礼において、自分のお言葉を読むようになったのは、大正天皇からである。
衣冠束帯の大隈首相は、庭で立ってお言葉を聞いた。そして、介添えを受けながら紫宸殿の18段の階段を昇り、即位のお祝いの寿詞(よごと)を読み上げた。「臣重信、帝国臣民に代り、恭しく大礼を賀し、千萬歳の寿を上つる」。大隈は「臣重信」を4回使い、天皇に仕える忠誠を示した。続いて大隈は、後ろ向きで階段を下り、庭の左右の万歳旙の間に立ち、高御座の天皇を見上げながら「万歳」を三唱、参列者が唱和した。明治憲法下ならではの式作法である。
※画像:京都御所紫宸殿
■ 大正天皇
1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日。第百二十三代天皇。在位:1912年(明治45年/大正元年)7月30日 - 1926年(大正15年/昭和元年)12月25日。諱は嘉仁(よしひと)、御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。明治天皇の第三皇子。九条道孝の四女節子(貞明皇后)と結婚、裕仁親王・雍仁親王・宣仁親王・崇仁親王の四皇子を得た。文学を好み和歌・漢詩を能くした。即位後は健康がすぐれず、専ら療養生活を送り、皇太子裕仁親王が摂政の任に就いた。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
2019年(令和元年)10月22日「令和の即位の礼」の原型となったのは、1915年(大正4年)京都御所で行われた、大正天皇の即位礼である。大正の即位礼には、特別の意味がある。それ以前の即位式は、ごく限られた人たちだけの宮中儀式であった。これに対し、大正即位礼は、初めて国民が祝賀に参加し、広く外国からも代表を招いた国際的な儀式であり、今日の「即位の礼」の原型になっている。また、明治憲法下で日本が「天皇国」としてまとまる一つの契機にもなった。
明治政府は1909年(明治42年)、天皇の即位などに関する皇室令「登極令」をつくり、初めてそれに従って大正即位礼が行われた。旧皇室典範第11条「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」の規定で、即位礼の会場は京都御所となった。
即位の礼、大嘗祭と一連の儀式を合わせた「御大礼」の大役を果たしたのは、早稲田大学総長だった大隈首相である。1898年(明治31年)首相に就任、1914年に76歳で再び首相となった。
午前は「即位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」。天皇が即位礼を行うことを神前に奉告する儀式で、当時はとても重要視された。皇居・宮中三殿の賢所に祭られる三種の神器の「鏡」は、この儀式のために京都御所に移して「春興殿」で行われた。
午後の「紫宸殿の儀」は、皇族、国会議員など国内の代表に加え、米、英、仏、露、伊などの大使、公使ら外国代表を含め、計2000人余が参列した。紫宸殿の前の庭には「萬歳」の字が刺繍された「万歳旙(ばんざいばん)」など、色鮮やかな旙(ばん=のぼり)が左右一列ずつ、計26本立てられた。紋様には、初代天皇の神武天皇東征の時、戦勝を祈って酒がめを川に沈めると、大小の魚(アユ)が浮き上がってきたという故事に基づく「酒壺」や「アユ」。神武天皇が熊野の山で道に迷った時、助けたという「八咫烏(やたがらす)」など、神武天皇神話にちなむものもあった。また、儀式の威容を整えるため、太刀、弓、盾など5種の「威儀物(いぎもの)」を持った古装束姿の男たちなどが居並んだ。
紫宸殿には、天皇が昇る「高御座(たかみくら)」が黒く輝いていた。この即位礼のために造営され、高さ6.5メートル、重さは8トン。大正天皇の2代前の孝明天皇が使った高御座が、幕末の御所大火(1854年)で焼失してしまった。このため、1868年(慶応4年)に紫宸殿で行われた明治天皇の即位式では、皇后用の「御帳台(みちょうだい)」を使った。現在の御帳台より簡素なものだった。そして、近代日本初の大正即位礼に合わせて、高御座と御帳台が新調され、令和の今日に伝わる。
大正天皇が午後3時過ぎ、真っ直ぐに立った立纓(りゅうえい)の冠に、ハゼの実で赤茶色に染め上げた黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)という束帯(宮中儀式服)姿で高御座に入り、難解な漢語調のお言葉(勅語)を朗読した。「内は邦基を固くして永く磐石の安を図り、外は国交を敦くして、共に和平の慶に頼らむとす」。天皇が即位礼において、自分のお言葉を読むようになったのは、大正天皇からである。
衣冠束帯の大隈首相は、庭で立ってお言葉を聞いた。そして、介添えを受けながら紫宸殿の18段の階段を昇り、即位のお祝いの寿詞(よごと)を読み上げた。「臣重信、帝国臣民に代り、恭しく大礼を賀し、千萬歳の寿を上つる」。大隈は「臣重信」を4回使い、天皇に仕える忠誠を示した。続いて大隈は、後ろ向きで階段を下り、庭の左右の万歳旙の間に立ち、高御座の天皇を見上げながら「万歳」を三唱、参列者が唱和した。明治憲法下ならではの式作法である。
※画像:京都御所紫宸殿
■ 大正天皇
1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日。第百二十三代天皇。在位:1912年(明治45年/大正元年)7月30日 - 1926年(大正15年/昭和元年)12月25日。諱は嘉仁(よしひと)、御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。明治天皇の第三皇子。九条道孝の四女節子(貞明皇后)と結婚、裕仁親王・雍仁親王・宣仁親王・崇仁親王の四皇子を得た。文学を好み和歌・漢詩を能くした。即位後は健康がすぐれず、専ら療養生活を送り、皇太子裕仁親王が摂政の任に就いた。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。