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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
東京都北区(武蔵国豊島郡)
2020年11月15日
江戸城を築城したことで有名な太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。
北区を支配していた豪族の豊島氏の本拠地は、上中里の平塚神社周辺と豊島の清光寺周辺だとされ、室町時代には、豊島郡のほぼ西半分に勢力を及ぼすに至った。しかし、文明10年(1478年)に太田道灌公との戦いに敗れ滅亡した。
北区域は「武蔵国豊島郡」に属しており、今の北区、板橋、荒川、台東、北区、豊島、練馬の各区にあたる。この郡の役所が西ヶ原にあったことが昭和58年(1983年)の御殿前遺跡発掘調査で分かった。
江戸時代のこの地域一帯は、農村地帯であった。飛鳥山や王子が江戸近郊の行楽地として発展し、八代将軍徳川吉宗公は享保の改革のひとつとして、飛鳥山を庶民の行楽の地として開放した。
そして、桜を1270本植樹させたというのは有名な話である。この時代の庶民は、春には飛鳥山の花見、夏は滝浴み、秋は滝野川の紅葉狩りと、こぞって北区の地を訪れるようになった。その風景は多くの絵師によって錦絵となり、今でも当時の賑わいを知ることができる。
甲賀武士である遠藤宗家は、将軍が日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。岩槻街道は、将軍一行が日光東照宮に参詣するときに通るので「御成道」と呼ばれるようになり、岩淵宿は、御成道の重要な宿場にまで発展した。慶長9年(1604年)から街道整備が始まり、東海道、中山道などの五街道に続き、岩槻街道等も整備された。
滝野川ごぼうは、江戸の元禄年間(1688年~1704年)から、滝野川村(東京都北区)の地で改良、採取されてきた。参勤交代の武士達が種を買い求め、全国のごぼうの9割以上がこの品種をもとに栽培されている。歯ざわりと香りがよく、江戸の浄瑠璃から名付けられたきんぴらごぼうは、江戸っ子たちの好物料理であった。
練馬大根は、徳川五代将軍の綱吉公が、尾張から種を取り寄せて、現在の練馬地区で栽培を命じたのが始まりとされる。以来、大根産地の代名詞として定着した。繊維が多く水分が少ないので、たくあん漬けに適した。落語の「長屋の花見」で、庶民が玉子焼きに見立てたというたくあんも、練馬大根が由縁である。
※画像:「東京土産名勝図会 王子瀧ノ川」歌川広重(三代)/1884年(明治17年)/北区飛鳥山博物館所蔵
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
北区を支配していた豪族の豊島氏の本拠地は、上中里の平塚神社周辺と豊島の清光寺周辺だとされ、室町時代には、豊島郡のほぼ西半分に勢力を及ぼすに至った。しかし、文明10年(1478年)に太田道灌公との戦いに敗れ滅亡した。
北区域は「武蔵国豊島郡」に属しており、今の北区、板橋、荒川、台東、北区、豊島、練馬の各区にあたる。この郡の役所が西ヶ原にあったことが昭和58年(1983年)の御殿前遺跡発掘調査で分かった。
江戸時代のこの地域一帯は、農村地帯であった。飛鳥山や王子が江戸近郊の行楽地として発展し、八代将軍徳川吉宗公は享保の改革のひとつとして、飛鳥山を庶民の行楽の地として開放した。
そして、桜を1270本植樹させたというのは有名な話である。この時代の庶民は、春には飛鳥山の花見、夏は滝浴み、秋は滝野川の紅葉狩りと、こぞって北区の地を訪れるようになった。その風景は多くの絵師によって錦絵となり、今でも当時の賑わいを知ることができる。
甲賀武士である遠藤宗家は、将軍が日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。岩槻街道は、将軍一行が日光東照宮に参詣するときに通るので「御成道」と呼ばれるようになり、岩淵宿は、御成道の重要な宿場にまで発展した。慶長9年(1604年)から街道整備が始まり、東海道、中山道などの五街道に続き、岩槻街道等も整備された。
滝野川ごぼうは、江戸の元禄年間(1688年~1704年)から、滝野川村(東京都北区)の地で改良、採取されてきた。参勤交代の武士達が種を買い求め、全国のごぼうの9割以上がこの品種をもとに栽培されている。歯ざわりと香りがよく、江戸の浄瑠璃から名付けられたきんぴらごぼうは、江戸っ子たちの好物料理であった。
練馬大根は、徳川五代将軍の綱吉公が、尾張から種を取り寄せて、現在の練馬地区で栽培を命じたのが始まりとされる。以来、大根産地の代名詞として定着した。繊維が多く水分が少ないので、たくあん漬けに適した。落語の「長屋の花見」で、庶民が玉子焼きに見立てたというたくあんも、練馬大根が由縁である。
※画像:「東京土産名勝図会 王子瀧ノ川」歌川広重(三代)/1884年(明治17年)/北区飛鳥山博物館所蔵
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。