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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
遠藤武 遠藤宗家第十六代当主
2020年09月26日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖父である遠藤武 第十六代当主遠藤宗家は、近衛捜索連隊補充隊 第七方面野戦貨物廠の下士官として、陸軍に所属した。
近衛師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の軍隊として、天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」(きんけつしゅご)の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」(ほうれんぐぶ)の任にも当たった。
鳳輦は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を意味する。天皇の公的な行幸では鳳輦が用いられ、私的な外出では屋根に葱花を載せた葱華輦(そうかれん)用いられたとされているが、元々は天皇の即位儀礼の際に限って鳳輦が用いられた。
1868年(明治1年)7月 新政府は江戸の名を東京に変えて東京府を開設し、その翌年、1869年(明治2年)3月 東京行幸において、天皇は鳳輦に乗って東京に移動した。1891年(明治24年)大日本帝国陸軍の近衛兵が改称されて成立した「近衛師団」は、「鳳輦供奉」と称して、天皇や皇居の警備の役割などを果たした。
遠藤宗家は、第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、徳川将軍家警護役の甲賀百人武士(徳川将軍家 直参御目見得)。1868年(明治元年)の明治維新以降、華族令の制定により1884年(明治17年)に士族となり、遠藤榮 第十五代当主(大正天皇侍従)を経て、遠藤武 第十六代当主(近衛師団下士官)、遠藤寛 第十七代当主(辯護士)に至る。
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦までの多くは、新設師団の捜索連隊が編成された。さらに、既存の師団が持つ旧来の騎兵連隊の多くも、1940年(昭和15年)以降に順次捜索連隊へと改編された。その際、既存騎兵連隊の有していた軍旗(連隊旗)は、奉還された。
但し、師団所属のすべての騎兵連隊が改編されたわけではなく、帝国陸軍の儀仗部隊として「鳳輦供奉」の任に当たっていた近衛師団の近衛騎兵連隊(「近衛騎兵連隊」とは別に「近衛捜索連隊」が編成されている)や、騎兵第3連隊・騎兵第6連隊等は、騎兵連隊として、終戦まで残った。
近衛騎兵連隊をはじめとして、中には騎兵連隊の名称のままでありながら、戦車中隊を追加された例なども多数あった。また、戦車師団が誕生するとその編制には、通常師団のものより強力な師団捜索隊が加えられた。
整備された捜索隊・捜索連隊は、編制内に装甲戦闘車両と自動車化歩兵を持ち、機械化が遅れていた日本陸軍の中では特異な存在となった。特に装甲車中隊に配備された九二式重装甲車・九四式軽装甲車・九七式軽装甲車は、戦車兵以外の兵種が使うことができた唯一の装甲戦闘車両となり、本来の偵察任務を超えて攻撃任務にまで投入された。
また、一応の諸兵科連合部隊となっていることから単独戦闘能力を期待され、師団主力から独立しての運用(挺進)が行われることがあったが、1939年(昭和14年)ノモンハン事件では、編成されたばかりの第23師団捜索隊が投入され、兵力の少なさや軽装甲車の非力さや補給の限界から苦戦することも多かった。
太平洋戦争緒戦の南方作戦においては、その高い機動力を生かして、師団の先頭に立ちビルマ攻略戦の戦例のように活躍することも多かった。しかし、中期以降の島嶼戦では、機動力発揮の余地が少なく、軽装甲車の性能限界も明らかだったことから、師団主力が前線へ進出する際に分離されて残留することが多くなった。そのため、不要となった捜索連隊は次々に解隊されて、兵員は戦車部隊に振り替えられていった。
捜索連隊は大隊結節を持たず、兵力500名以下と連隊としては小規模であり、連隊長も歩兵連隊なら大佐であるところ、後期には少佐であることが多かった。各連隊ごとに編制の差が、非常に大きかった。
太平洋戦争においては、軍隊輸送船への船積みの関係で縮小編制とされて、出動することが多かった。太捜索隊・捜索連隊の数は最大時には40隊を超えていたが、終戦時に残っていたのは23隊のみで、そのうち9隊は戦力喪失状態だった。
第七方面軍は、占領地域が増え、それまで南西地域で統一した作戦・軍政を行う部隊が無かった事から、大本営は1944年(昭和19年)3月27日南方軍戦闘序列を更改し、新たに編制された。南方軍隷下では、シンガポール方面の作戦・防衛を担当した。
編制完結は、4月15日。当初の隷下兵団は第16軍、第25軍、第29軍、ボルネオ守備軍の4つだったが、ボルネオ守備軍は第37軍に改編され指揮下から離れた。1944年(昭和19年)4月25日 方面軍司令部のあるシンガポール(当時は昭南市)防衛の為、「昭南防衛隊」の編制を下令し、10月14日編制完結。
1945年(昭和20年)5月頃から方面軍はシンガポールの守備に特に力を注ぎ、同地に展開していた第3航空軍司令部・海軍の第十方面艦隊司令部と連携する。新たな陣営を構築している最中に終戦を迎えた。
第七方面野戦貨物廠とは、大日本帝国陸軍の機関の一つ。主に軍司令部等の高級司令部に属し、兵器・弾薬以外の物資の補給を担当した。主計将校が指揮を執り、下士官や軍属の主計部員が所属した。
画像:英軍に降伏する第七方面軍司令官
≪ 第七方面軍 ≫
創 設:1944年(昭和19年)3月22日
廃 止:1945年(昭和20年)
所属政体:Flag of Japan.svg大日本帝国
所属組織:大日本帝国陸軍
部隊編制単位:方面軍
所在地:シンガポール
通称号/略称:岡
最終上級単位:南方軍
担当地域:シンガポール
最終位置:シンガポール
主な戦歴:第二次世界大戦
■ 遠藤武
(1876年(明治9年)6月4日-1993年(平成5年)年8月15日)、遠藤宗家第十六代当主。高徳寺檀家。院号:雲光院盆誉武徳居士。士族、早稲田大学法学部卒、陸軍省近衛捜索連隊補充隊下士官、東京都財務局公吏等を歴任。40年7月近衛捜索連隊(東京駒場)発令、近衛混成旅団騎兵中隊を改編。近衛師団隷属。近衛第2師団編成後は同師団に隷属、39年捜索第35連隊(旭川/東京大橋)騎兵第7連隊補充隊で編成下令、41年近衛捜索連隊補充隊配属、43年第七方面野戦貨物廠、45年下士官、46年帰還、南十字星 南方野戦貨物廠戦友会。67年東京都退庁。
近衛師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の軍隊として、天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」(きんけつしゅご)の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」(ほうれんぐぶ)の任にも当たった。
鳳輦は、「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を意味する。天皇の公的な行幸では鳳輦が用いられ、私的な外出では屋根に葱花を載せた葱華輦(そうかれん)用いられたとされているが、元々は天皇の即位儀礼の際に限って鳳輦が用いられた。
1868年(明治1年)7月 新政府は江戸の名を東京に変えて東京府を開設し、その翌年、1869年(明治2年)3月 東京行幸において、天皇は鳳輦に乗って東京に移動した。1891年(明治24年)大日本帝国陸軍の近衛兵が改称されて成立した「近衛師団」は、「鳳輦供奉」と称して、天皇や皇居の警備の役割などを果たした。
遠藤宗家は、第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、徳川将軍家警護役の甲賀百人武士(徳川将軍家 直参御目見得)。1868年(明治元年)の明治維新以降、華族令の制定により1884年(明治17年)に士族となり、遠藤榮 第十五代当主(大正天皇侍従)を経て、遠藤武 第十六代当主(近衛師団下士官)、遠藤寛 第十七代当主(辯護士)に至る。
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦までの多くは、新設師団の捜索連隊が編成された。さらに、既存の師団が持つ旧来の騎兵連隊の多くも、1940年(昭和15年)以降に順次捜索連隊へと改編された。その際、既存騎兵連隊の有していた軍旗(連隊旗)は、奉還された。
但し、師団所属のすべての騎兵連隊が改編されたわけではなく、帝国陸軍の儀仗部隊として「鳳輦供奉」の任に当たっていた近衛師団の近衛騎兵連隊(「近衛騎兵連隊」とは別に「近衛捜索連隊」が編成されている)や、騎兵第3連隊・騎兵第6連隊等は、騎兵連隊として、終戦まで残った。
近衛騎兵連隊をはじめとして、中には騎兵連隊の名称のままでありながら、戦車中隊を追加された例なども多数あった。また、戦車師団が誕生するとその編制には、通常師団のものより強力な師団捜索隊が加えられた。
整備された捜索隊・捜索連隊は、編制内に装甲戦闘車両と自動車化歩兵を持ち、機械化が遅れていた日本陸軍の中では特異な存在となった。特に装甲車中隊に配備された九二式重装甲車・九四式軽装甲車・九七式軽装甲車は、戦車兵以外の兵種が使うことができた唯一の装甲戦闘車両となり、本来の偵察任務を超えて攻撃任務にまで投入された。
また、一応の諸兵科連合部隊となっていることから単独戦闘能力を期待され、師団主力から独立しての運用(挺進)が行われることがあったが、1939年(昭和14年)ノモンハン事件では、編成されたばかりの第23師団捜索隊が投入され、兵力の少なさや軽装甲車の非力さや補給の限界から苦戦することも多かった。
太平洋戦争緒戦の南方作戦においては、その高い機動力を生かして、師団の先頭に立ちビルマ攻略戦の戦例のように活躍することも多かった。しかし、中期以降の島嶼戦では、機動力発揮の余地が少なく、軽装甲車の性能限界も明らかだったことから、師団主力が前線へ進出する際に分離されて残留することが多くなった。そのため、不要となった捜索連隊は次々に解隊されて、兵員は戦車部隊に振り替えられていった。
捜索連隊は大隊結節を持たず、兵力500名以下と連隊としては小規模であり、連隊長も歩兵連隊なら大佐であるところ、後期には少佐であることが多かった。各連隊ごとに編制の差が、非常に大きかった。
太平洋戦争においては、軍隊輸送船への船積みの関係で縮小編制とされて、出動することが多かった。太捜索隊・捜索連隊の数は最大時には40隊を超えていたが、終戦時に残っていたのは23隊のみで、そのうち9隊は戦力喪失状態だった。
第七方面軍は、占領地域が増え、それまで南西地域で統一した作戦・軍政を行う部隊が無かった事から、大本営は1944年(昭和19年)3月27日南方軍戦闘序列を更改し、新たに編制された。南方軍隷下では、シンガポール方面の作戦・防衛を担当した。
編制完結は、4月15日。当初の隷下兵団は第16軍、第25軍、第29軍、ボルネオ守備軍の4つだったが、ボルネオ守備軍は第37軍に改編され指揮下から離れた。1944年(昭和19年)4月25日 方面軍司令部のあるシンガポール(当時は昭南市)防衛の為、「昭南防衛隊」の編制を下令し、10月14日編制完結。
1945年(昭和20年)5月頃から方面軍はシンガポールの守備に特に力を注ぎ、同地に展開していた第3航空軍司令部・海軍の第十方面艦隊司令部と連携する。新たな陣営を構築している最中に終戦を迎えた。
第七方面野戦貨物廠とは、大日本帝国陸軍の機関の一つ。主に軍司令部等の高級司令部に属し、兵器・弾薬以外の物資の補給を担当した。主計将校が指揮を執り、下士官や軍属の主計部員が所属した。
画像:英軍に降伏する第七方面軍司令官
≪ 第七方面軍 ≫
創 設:1944年(昭和19年)3月22日
廃 止:1945年(昭和20年)
所属政体:Flag of Japan.svg大日本帝国
所属組織:大日本帝国陸軍
部隊編制単位:方面軍
所在地:シンガポール
通称号/略称:岡
最終上級単位:南方軍
担当地域:シンガポール
最終位置:シンガポール
主な戦歴:第二次世界大戦
■ 遠藤武
(1876年(明治9年)6月4日-1993年(平成5年)年8月15日)、遠藤宗家第十六代当主。高徳寺檀家。院号:雲光院盆誉武徳居士。士族、早稲田大学法学部卒、陸軍省近衛捜索連隊補充隊下士官、東京都財務局公吏等を歴任。40年7月近衛捜索連隊(東京駒場)発令、近衛混成旅団騎兵中隊を改編。近衛師団隷属。近衛第2師団編成後は同師団に隷属、39年捜索第35連隊(旭川/東京大橋)騎兵第7連隊補充隊で編成下令、41年近衛捜索連隊補充隊配属、43年第七方面野戦貨物廠、45年下士官、46年帰還、南十字星 南方野戦貨物廠戦友会。67年東京都退庁。