遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

日比谷入江

2020年09月01日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の縁戚である太田道灌公は、古河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、長禄元年(1457年)中世の江戸氏の居館跡に江戸城を築城した。

日比谷入江は、現在の東京都千代田区東部に江戸時代初頭まであった入り江である。 入り江は江戸湾(東京湾)北西奥に、新橋付近を湾口として北に伸び、北端は現在の大手町にまで達した。そのやや南に、現在の丸の内1丁目から皇居外苑に入る和田倉門があったが、「和田」とは「ワダ(海)」を意味し、海に面した倉庫があったことに由来する。応永7年(1400年)代まで皇居外苑より東には「日比谷入江」が存在し、「江戸前島」と呼ばれる砂州(微高地)があった以外、海が広がっていた。現在の皇居には江戸城があり、日比谷入江を眺める高台だった。徳川家康公の関東入国までは平川(現神田川)の河口であった。

西は武蔵野台地の東端である本丸台地(江戸城)に、東は武蔵野台地が北から回りこんだ本郷台地からさらに南方に(現在の山手線沿いに)延びる半島である江戸前島に囲まれていた。北からは平川が流れ込み低湿地となっていた。

徳川家康公は江戸城付近の埋め立てに着手し、江戸時代初頭には軍港として利用された(商港の江戸湊は江戸前島の反対側の東海岸に建てられた)。文禄元年(1592年) 日比谷入江の埋立が実施され、埋立には西の丸(現在の皇居あたり)の築城工事で出た廃土を用いた。

この結果、「の」の字型の総構えを有する周囲16kmにも及ぶ城郭が完成した。江戸城の工事は寛永17年(1640年)頃に終了し、本丸・二ノ丸・三ノ丸、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸が作られた。そこに、20基の櫓と5重の天守が作られた。本丸、二の丸、西の丸などには将軍などの御殿が建ち、吹上には御三家の屋敷、東の大手門下から和田倉門外には譜代大名の屋敷、南の桜田門外には外様大名の屋敷が配され、西の半蔵門外から神田橋門外の台地に旗本・御家人が住み、東の低地に町人地が作られた。これに伴い、漁民は京橋と芝口に移住した。

甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。

日比谷入江は武家地として繁栄するが、埋め立て地の地盤は弱く、元禄16年(1703年)元禄江戸地震、安政2年(1855年)安政江戸地震、大正12年(1923年)関東地震では大きな被害を受けた。東日本大震災 平成13年(2001年)の際、日比谷公園付近では地盤沈下が発生した。

9月1日「防災の日」は、昭和35年(1960年)に、内閣の閣議了解により制定された。日付は、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災にちなんだものである。また、例年8月31日~9月1日付近は、台風の襲来が多いとされる二百十日にあたり「災害への備えを怠らないように」との戒めも込められている。

※画像:西丸玄関前御門へ渡る西丸下乗橋(通称:二重橋)。
    明治4年(1871年)撮影



■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である長女孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。三女里子は、遠藤武遠藤宗家第十五代当主夫人。太田道灌公は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。