遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

赤坂青山北町

2020年08月16日
徳川幕府開府後に鉄砲百人組の一つである遠藤宗家甲賀百人組は、青山甲賀町(現在の神宮球場近辺)の組屋敷を拝領する。

その他に甲賀組は、青山権田原にも幕府から鉄砲演習場を拝領した。その際、甲賀稲荷神社を建立し、明治十八年(1885年)青山練兵場(現在の外苑)設置のために鳩森八幡神社に遷座、合祀された。

古くは、一~五丁目辺りは原宿村、六丁目辺りは上渋谷村の田野だったが、天正十八年(1590年)徳川家康公の関東入国後、一体は青山忠成の屋敷として与えられ、青山という地名の起こりとなる。江戸時代には篠山藩青山家の他、龍野藩脇坂家、広島藩浅野家、一関藩田村家、柳本藩織田家等の大名や遠藤宗家の青山甲賀屋敷のあった百人組同心大縄地(青山百人町)をはじめとする幕臣の屋敷があった。遠藤宗家の菩提寺である高徳寺、善光寺や海蔵寺は、現存している。

明治五年(1872年)青山通りの北及び北西側の青山和泉町、青山北和泉町、青山久保町、青山原宿町(現・渋谷区神宮前三丁目だが、当時は赤坂区だったのか不明)、青山善光寺町、旧武家地、寺地を併合して一~七丁目が起立。同年の戸数903・人口3,738、物産は傘、生茶、桑、繭、藍等がある(府志料)。

明治十一年(1878年)11月2日、東京府赤坂区に所属。明治十九年(1886年)一~三丁目の裏手一帯が陸軍青山練兵場となる。明治二十二年(1889年)5月1日東京府東京市赤坂区に所属。その際、七丁目は東京府南豊島郡渋谷村に編入、大字青山北町七丁目となる。明治二十四年(1891年)には一丁目に陸軍大学校、明治三十三年(1900年)には青山師範学校が移転。青山練兵場の敷地は、明治四十一年(1908年)に大博覧会敷地に認定されたが、(博覧会は大正二年(1913年)無期延期)大正二年(1913年)に明治神宮の社地に選ばれた。

尚、大正七年(1918年)には三丁目に女子学習院が転入。大正十五年(1926年)神宮外苑が竣工。六丁目より明治神宮へと向かう表参道が設置。昭和十八年(1943年)七月一日、東京都赤坂区に所属。昭和二十二年(1947年)三月十五日、東京都港区に所属。戦後は青山通りを中心にビル化が進み、赤坂・六本木と並び評される先端的な繁華街へと発展を遂げ、一丁目の陸軍大学校は区立青山中学校と都営アパート、三丁目の女子学習院は秩父宮ラグビー場等、五丁目の青山師範学校跡が都営住宅に整備された。

住居表示の実施により、昭和四十一年(1966年)十月一日、一丁目が北青山一丁目に、二丁目が北青山一・二丁目に、三・四丁目が北青山二丁目に、五・六丁目が北青山三丁目に編入となり消滅した。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。