遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

寂照山高徳寺

2020年08月15日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の菩提寺である浄土宗寺院の寂照山唯心院高徳寺(山號及別號寂光山唯心院 京都知恩院末)は、晃誉上人居的和尚が元和九年(1623年)に開山した。江戸時代には淳澄、源流、隆察など増上寺学寮出身の僧侶が晋山している。

江戸幕府に入府した徳川家康公の命により、甲賀組の遠藤宗家が開基家として、天正七年(1579年)赤坂青山北町(現在の北青山)に建立した。その際、甲賀組が信仰の対象としていた浄土宗寺院を近江国の甲賀郡から、江戸に移転した。そのことから、遠藤宗家第十五代当主 遠藤榮(大正天皇侍従)等が、檀家総代を務めた。

三千余坪ある高徳寺の境内は、本堂の瓦葺屋棟に金色の徳川将軍家葵章を附する。本尊は、阿弥陀如来(行基菩薩作)。左右は、観音勢至。山之手六阿彌陀の第三番の札所や満願稲荷社、寿延観音堂、子安観音堂、鐘楼(梵鐘の銘宝永元年)などは、徳川幕府の全面的な援助で造営された。

嘉永二年(1849年)十一月、『徳川幕府寺社奉行』に録上したもののなかに、【浄土宗京都知恩院未寂光山唯心院高徳寺】とあり、甲賀組が幕府から給った年貢地が原宿村にあり、今では寺の年貢地になっていると記述されている。

『寛政重修諸家譜』巻一四一二に慶長五年(1600年)、関ヶ原の合戦の前哨戦として家臣・鳥居元忠は家康公の命により石田三成らの攻撃から伏見城を死守した際、望月山中等の伏見城名古屋丸を守った甲賀衆が討ち死にし、その数は七十名におよんだとされている。高徳寺に伝わる過去帳の第一巻(過去帳十四冊蔵、慶長五子年八月朔日)に、遠藤宗家先祖 遠藤左太夫も討ち死にした者七十名の一人として記されている。(院号:先祖遠藤左太夫 慶長五年七月戒日【大誉忠節禅完門】)

このときの伏見城の血染め畳は、家康公が江戸城の伏見櫓の階上に設置を命じて、登城した大名たちに討死者の精忠を偲ばせた。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。床板は、「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられてる。

家康公は関ヶ原の大勝後、遠藤左太夫の戦功を称え、遠藤宗家初代以降に左太夫を襲名させた。遠藤左太夫の位牌は、甲賀流忍術発祥の地である滋賀県甲賀市甲賀町の長福寺に残されている。

家康公が江戸城に入府した際、死者の子弟を集めて、与力十人、同心百人からなる、甲賀組を編成させた。甲賀組に江戸城の本丸と大手三門を警備する大役を与えた。本丸の正面大手門は、厳重に固めた三つの門からなり、順々に開けたので『大手三門』と言われた。『大手三門』は十万石以上の譜代大名が警護したが、甲賀組も同様にその任務を与えられた。従来より甲賀武士である遠藤宗家は、家康公の信頼が厚く、将軍家の親衛隊というべき責任ある地位であった。

遠藤宗家 墓所である五輪塔は、第十四代当主 遠藤市次郎の三回忌(阿弥陀如来)昭和七年四月十二日没(1932年)に第十五代当主 遠藤榮が建立した。三回忌は、「阿弥陀浄土」という言葉があるように浄土宗や浄土真宗では阿彌(弥)陀如来を主本尊として祀り、“南無阿弥陀仏”の六字名号(念仏)を唱えれば、阿弥陀如来の力(功徳)により悩みや苦しみから救われ、安心を得ることが出来ると信心されている。遠藤宗家五輪塔の建立以前にあった石塔は、墓所の墓下に安置されている。

≪ 高徳寺境内の主な墓所 ≫
■ 母里藩(出雲松江藩の支藩)江戸菩提寺。正室墓所。
石 高:1万石
実 高:9,500-10,500石程度(推計)17世紀後半には15,000石
集 落:20ヶ村(正保国絵図、郡村誌などより)
人 口:5,000-10,000人程度
藩 主:越前松平家分家(極冠は従五位、帝鑑間詰)
菩提寺:一乗寺 島根県能義郡伯太町井尻1927
家 紋:丸三九葉三葉葵巴(裏紋は六つ葵・三鐶三九葉三葉葵巴)

■ 遠藤宗家菩提寺墓所。
石 高:1万石以下
本 国:美濃国
知行地:近江国
屋 敷:青山甲賀屋敷、千駄ヶ谷甲賀屋敷
旗 本:徳川将軍家 直参御目見得
総本山:知恩院 京都市東山区林下町400
菩提寺:寂照山高徳寺
家 紋:左三つ巴

■ 本康 宗圓( 嘉永五年五月二十四日)墓所。
本康家第六代当主。江戸時代末期の幕府医官。代々幕府に仕えた口科(歯科)の医家。父は碩寿。文化七年(1810年)家督を継ぐ。文政六年(1823年)奥医師見習い。文政十年(1827年)奥医師に昇進。天保二年(1831年)法眼に叙せられる。

■ 河内山 宗春(文政六年七月二十二日)墓所。
江戸城西の丸に出仕した江戸時代後期の茶坊主。若年寄支配下に属した同朋衆の一つ。将軍・大名などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる。宗春を題材とした講談・歌舞伎などの作品で知られる。歌舞伎・映画・テレビドラマなどでは、名前を「宗俊」と表記する。また「宗心」とも表記する。


≪ 東京名所図会による寂照山高徳寺の縁起 ≫
高徳寺は。青山北町四丁目四十六番地に在り。即ち御熊野横丁の北畔にして。道路より少しく奥の方に黒門あり。本堂は瓦葺にて。其の屋棟に金色の葵章を附したり。本尊は阿弥陀如来。行基菩薩の作。左右は観音勢至。山の手六あみた第三番の札所なり。
嘉永二年十一月幕府寺社奉行に録上せしものに。左の如く見ゆ。
浄土宗京都知恩院末寂光山唯心院高徳寺。
一拙寺境内御留守居支配明屋敷番伊賀者給地古跡添地七十五坪。古跡年貢地二千八百五十坪有之。添地年貢地地境相分り兼。一圓武州豊島郡原宿村に御座候。寺號其外相替候儀無御座候。
一起立。天正七年也月日相知不申候。
是にて創建の大略を知るべし。開山は晃譽無的上人にして。開基は甲賀組の望月助之進外七名なりといふ。今の本堂は間口七間奥行九間。享保十四年三月第五世忍譽存道上人の再建に係る現時の住職は矢田圓随師なり。
當寺には。過去帳十四冊を蔵し。慶長五子年八月朔日。上野重蔵を首とし。本年に至るまでの埋葬者を詳記しあり。過去帳のかく完全に保存しあるは。殊勝のことといふべし。
西洋人執筆の墓碑。東京南新堀萬屋庄兵衛次男掌次郎(明治三年三月二日)の碑にして。碑面の上部には欧文。下部には片假名を以て其の履歴を記し。正面に題して西譽洋學信士とあり。文末には横濱在留亜國四番加比丹レーム誌と刻したるは。いとめづらし。
日行大我の碑。左右石柱に猿を刻し。碑面に蓮峰行仙信士天明八甲子年十二月廿三日とありて。明らかに富士行者たることを表明せり。
井出龍僊の碑。(碑文省略)
河内山宗春の墓。本堂の西の方五間許の所に在り。高さ一尺五寸程の小墓なり。其の傍に「河内山宗春の墓」としるし標榜あり。僅かに探準を寫せり。表面には
求め道浄欣信士
光岳院法楯童子
とありて。
左の横に河内山宗春と刻しあり。又右の横には
求文政六癸未年六月二十二日河内山氏
光安永十辛丑年四月十六日
と鐫せり。當寺の過去帳を検するに。浄欣信士七月廿二日牢死河内山宗春と記し。浄欣の上に求道の二字を加筆あり。聞く宗春は牢死たる者なれば。夜中竊に葬り。寺僧も憚りて僅かに欣浄信士と諡號せしが。後ち建墓の際求道の二字を追加せしものならむと。法楯童子は宗春の子のよし。但安永十年即ち天明元年にて文政六年より四十三年前なり。

≪ 高徳寺 桐の花 ≫
桐の花は朝鮮半島をわたって日本に伝わってきた由来がある。中国では、鳳凰の止まる木とされ重宝された。日本でも平安時代の頃から、皇室の紋章や天皇の身につけている衣服の刺繍や染め抜きなどに用いられてきたことから、高貴な意味のある植物として扱われてきた。また寒さにとても強いという特徴を持っており、北海道でも数多く自生している姿を見ることができる。春になる頃が開花の見頃である。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。