遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

明顕山祐天寺

2020年06月11日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。

甲賀百人組に所属していた遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。甲賀武士である「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行い、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。

東京都目黒区中目黒五丁目にある祐天寺は、浄土宗の寺院である。山号は明顕山。本尊は祐天上人像(本堂安置)と阿弥陀如来坐像(寄木造、阿弥陀堂安置)。現在の本堂は、元々は常念仏堂として建立された堂宇を再建したものである。

勧請開山の祐天上人は、生実大厳寺十五世、飯沼弘経寺三十世、小石川伝通院十七世、大本山三縁山増上寺第三十六世を勤めた大僧正で、八代将軍吉宗公・大岡越前神忠相による町火消し組織も、祐天上人が弘安した消防制「いろは四十八文字」を基にしたものと言われている。

享保3年の春頃から、德川将軍家菩提寺である芝増上寺の36世法主を務めていた祐天の体調が悪化したため、弟子の祐海は祐天が常念仏を行える廟所を探した。しかし、同年(1718年8月11日)に祐天が亡くなった。祐天は下目黒善久院で念仏を修行したことから、生前より目黒に廟所を建立するのを望んでいたこともあり、享保8年(1723年1月13日)八代将軍吉宗公より「明顕山祐天寺」の寺号が授与された。将軍の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど德川将軍家と因縁のある寺として栄え、祐海は第2世となる。

德川将軍家と深いつながりがある祐天寺の境内には、二代将軍秀忠公の正室であり三代将軍家光公の生母である江(崇源院)の位牌を納めて祀るための旧崇源院霊屋宮殿、五代将軍綱吉公の息女 竹姫から寄進された阿弥陀堂や仁王門、六代将軍家宣公の正室だった天英院から寄進された鐘楼堂にある銅製の梵鐘(高さ179.6cm、口径102.2cm)、地蔵堂などが現存している。

梵鐘に刻まれた銘文と祐天寺に伝わる史料によると、この梵鐘は6代将軍家宣公の正室天英院が、家宣公の17回忌の追善供養として享保13年(1728年)に鋳造の発願をし、翌14年(1729年)に祐天寺境内で鋳造された。鋳継ぎの跡から、4回に分けて鋳造された。また、鐘身の上部には德川将軍家の葵紋と、天英院の実家である近衛家の牡丹紋があしらわれている。現在でも毎日、朝6時と正午前に時を知らせる鐘として撞かれている。

【 明顕山祐天寺の概要 】
山 号:明顕山
寺 号:祐天寺
宗 派:浄土宗
本 尊:阿弥陀如来像
備 考:西方六阿弥陀6番
住 所:東京都目黒区中目黒5-24-53


■ 明顕山祐天寺
本堂:木造祐天上人坐像が安置。将軍綱吉公の息女松姫の寄進(享保4年大仏師法橋石見・都指定文化財)。祐天寺第二世:祐海上人の木造坐像・区指定文化財等が安置。本寺所蔵:「般若心経」1巻、「紺紙金字法華経巻第三」1巻・都指定文化財は、類例の少ない逸品。境内:将軍綱吉公息女竹姫寄進(仁王門・区指定文化財)、阿弥陀堂、稲荷堂、将軍家宣公夫人天英院寄進:梵鐘、鐘楼。地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがある。墓地には、祐天上人の墓や柳原愛子(大正天皇生母)の墓等の名墓、白子組並びに灘目の海難供養碑などがある。