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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
佐野鼎 開成学園創立者
2019年07月29日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚である佐野鼎加賀金沢藩士は、開成学園の前身の共立学校を創立した。1895年(明治28年)共立学校が開成学園と改名されてから、2021年学校創立150周年という節目の年を迎える。
創立者の佐野鼎は1829年(文政12年)、駿河国(現静岡県富士市)の郷土の家に生まれた。16歳にときに江戸に出てオランダ式砲術家下曽根金三郎塾に入り19歳で塾頭に就任する。後、27歳で長崎の海軍伝習所に学び、1854年(安政元年)29歳で加賀藩に招聘され、壮猶館 の西洋砲術師範方棟取となった。1860年(万延元年)日米修好通商条約批准書交換の遣米使節団に従僕として参加し、帰国後に『奉使米行航海日記(万延元年訪米日記)』を13代藩主前田斉泰公に献上した。視察日記においては、加賀藩最初のアメリカ体験者として、アメリカ事情最初の記録を残した。佐野鼎は1861年(文久元年)にも、幕府遣欧使節団に随行したことで、藩内きっての欧米通となった。帰国後は軍艦所奉行補佐として加賀藩の軍艦購入に尽力した。
佐野鼎は、渡欧して教育事情を視察、日本にも欧米なみの学校が必要であると強く感じ、 帰国後、明治4年(1871年)に 共立学校を創立するも、早逝したため、 初代校長には 高橋是清が就任。明治28年(1895年)には、校名を「共立学校」から「東京開成中学校」に変更された。
板橋区加賀には、今も敷地面積の広い施設が集中している。また、町名になっている加賀をはじめ、加賀公園、金沢小学校、金沢橋など現在も金沢にまつわる地名や名称が多く有る。この地は、加賀藩前田家下屋敷跡で、明治維新後から第二次大戦の敗戦までは陸軍の火薬工場(東京第二陸軍造兵廠板橋工場)として使われていたことから軍の解体後は民間工場、学校、研究施設、そしてマンションなど住宅地などに転用され、その名が残った。
明冶4年(1871年)兵部省はこの土地の一部を火薬製造所の用地とするために明冶政府に引渡しを求めていた。その理由に「彼邸ニハ水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と書かれ、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要だったため、同4年10月この前田家下屋敷の一部を造兵司属地となり火薬製造の建設が始まった。当時は鉄道開通前で、水運や中仙道を使えば、都心の各所や陸軍造兵司本部(現東京ドーム一帯)への物流網を確保した。当時兵部省の造兵部門の長にあたる造兵司正(頭)には、加賀藩士の専門が兵学や科学の佐野鼎が就任している。
明治6年(1873年)に陸軍省がこの跡地を買収し、日本初となる黒色火薬の西洋式火薬製造所を開設された。以後、昭和20年(1945年)まで、陸軍が使用する各種火薬や機関銃、大砲などを製造し、最盛期には7,000人の従業員を抱え、周辺にも軍需の民間工場群が集積されていた。陸軍の一大火薬・兵器工場が加賀に立地するようになるには、操業に必要な広大な土地がまるごと確保できたこと、そして、特に危険物を取り扱うため緩衝地帯を広くとることが必要で、当時は機械の動力が水力に頼らざるを得なかったため、石神井川沿いのこの土地が恰好の立地だった。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である栗原鉚三石神井村村長(現練馬区)は、代々旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などをふくむ広大な土地を所有していた。石神井川に沿うように各地から旧石器時代の遺物が発掘されており有史以前から活動の盛んな地域であった。特に三宝寺池南岸には旧石器時代から室町時代にまでおよぶ遺跡群が集中しており、古くからの地域拠点であったと考えられ1349年(貞和5年)に石神井郷は豊島氏の支配を受けるが、1368年(応安元年)武蔵平一揆の乱に敗れて関東管領上杉憲顕に所領を没収され、1395年(応永2年)に還補されたこの頃から石神井城が築かれ豊島氏の本拠となったと考えられている。
石神井城は1477年(文明9年)長尾景春の乱のさなかに遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚である太田道灌公に攻められて落城、一帯は上杉氏・後北条氏のもと太田氏の所領となり、その後は徳川氏の領有となる。文禄年間に谷原、田中、石神井、関の4村に分かれ、その後正保年間までに石神井村は上下2村に分かれ、さらに1784年(天明4年)に竹下新田が開墾される。江戸時代を通じて幕府直轄領であり、明治維新後は品川県を経て東京府の所轄となった。
【 万延元年遣米使節子孫の会 】
万延元年(1860年)徳川幕府は初めての遣米使節団を派遣した。この使節団は、米国にとって建国以来、米国外交史上最初に受け入れた外国使節団であり、新見豊前守正興を正使とする使節団77名が派遣された。万延元年遣米使節子孫の会は、その77名の子孫並びに関係者が集い、親睦をはかると共に、史実とその意義を正しく伝え、日米親善の貢献に寄与する事を目的としており、遠藤 潔が会員である徳川宗家柳営会との交流もある。
■ 佐野鼎
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父であり大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の妹君子の夫である佐野清宝石販売佐野商店社長の親戚。天保2年(1831年)駿河国富士郡生まれ、明治10年(1877年)10月24日コレラに罹り47歳急逝。通称は貞助(輔)。江戸に出てオランダ式砲術家下曽根金三郎塾に入り19歳で塾頭。のち長崎の海軍伝習所に学び、安政元年(1854年)加賀藩に洋式兵学校壮猶館が設立されたとき西洋砲術師範方棟取役。安政7年(万延元年1860年)幕府遣米使節に随行「奉使米行航海日記」を著し、文久元年(1861年)の遣欧使節にも加わり明治4年(1871年)廃藩置県後、金沢藩の洋学・砲術・海洋学の講師から兵部省の造兵司正(頭)。
創立者の佐野鼎は1829年(文政12年)、駿河国(現静岡県富士市)の郷土の家に生まれた。16歳にときに江戸に出てオランダ式砲術家下曽根金三郎塾に入り19歳で塾頭に就任する。後、27歳で長崎の海軍伝習所に学び、1854年(安政元年)29歳で加賀藩に招聘され、壮猶館 の西洋砲術師範方棟取となった。1860年(万延元年)日米修好通商条約批准書交換の遣米使節団に従僕として参加し、帰国後に『奉使米行航海日記(万延元年訪米日記)』を13代藩主前田斉泰公に献上した。視察日記においては、加賀藩最初のアメリカ体験者として、アメリカ事情最初の記録を残した。佐野鼎は1861年(文久元年)にも、幕府遣欧使節団に随行したことで、藩内きっての欧米通となった。帰国後は軍艦所奉行補佐として加賀藩の軍艦購入に尽力した。
佐野鼎は、渡欧して教育事情を視察、日本にも欧米なみの学校が必要であると強く感じ、 帰国後、明治4年(1871年)に 共立学校を創立するも、早逝したため、 初代校長には 高橋是清が就任。明治28年(1895年)には、校名を「共立学校」から「東京開成中学校」に変更された。
板橋区加賀には、今も敷地面積の広い施設が集中している。また、町名になっている加賀をはじめ、加賀公園、金沢小学校、金沢橋など現在も金沢にまつわる地名や名称が多く有る。この地は、加賀藩前田家下屋敷跡で、明治維新後から第二次大戦の敗戦までは陸軍の火薬工場(東京第二陸軍造兵廠板橋工場)として使われていたことから軍の解体後は民間工場、学校、研究施設、そしてマンションなど住宅地などに転用され、その名が残った。
明冶4年(1871年)兵部省はこの土地の一部を火薬製造所の用地とするために明冶政府に引渡しを求めていた。その理由に「彼邸ニハ水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と書かれ、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要だったため、同4年10月この前田家下屋敷の一部を造兵司属地となり火薬製造の建設が始まった。当時は鉄道開通前で、水運や中仙道を使えば、都心の各所や陸軍造兵司本部(現東京ドーム一帯)への物流網を確保した。当時兵部省の造兵部門の長にあたる造兵司正(頭)には、加賀藩士の専門が兵学や科学の佐野鼎が就任している。
明治6年(1873年)に陸軍省がこの跡地を買収し、日本初となる黒色火薬の西洋式火薬製造所を開設された。以後、昭和20年(1945年)まで、陸軍が使用する各種火薬や機関銃、大砲などを製造し、最盛期には7,000人の従業員を抱え、周辺にも軍需の民間工場群が集積されていた。陸軍の一大火薬・兵器工場が加賀に立地するようになるには、操業に必要な広大な土地がまるごと確保できたこと、そして、特に危険物を取り扱うため緩衝地帯を広くとることが必要で、当時は機械の動力が水力に頼らざるを得なかったため、石神井川沿いのこの土地が恰好の立地だった。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である栗原鉚三石神井村村長(現練馬区)は、代々旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などをふくむ広大な土地を所有していた。石神井川に沿うように各地から旧石器時代の遺物が発掘されており有史以前から活動の盛んな地域であった。特に三宝寺池南岸には旧石器時代から室町時代にまでおよぶ遺跡群が集中しており、古くからの地域拠点であったと考えられ1349年(貞和5年)に石神井郷は豊島氏の支配を受けるが、1368年(応安元年)武蔵平一揆の乱に敗れて関東管領上杉憲顕に所領を没収され、1395年(応永2年)に還補されたこの頃から石神井城が築かれ豊島氏の本拠となったと考えられている。
石神井城は1477年(文明9年)長尾景春の乱のさなかに遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚である太田道灌公に攻められて落城、一帯は上杉氏・後北条氏のもと太田氏の所領となり、その後は徳川氏の領有となる。文禄年間に谷原、田中、石神井、関の4村に分かれ、その後正保年間までに石神井村は上下2村に分かれ、さらに1784年(天明4年)に竹下新田が開墾される。江戸時代を通じて幕府直轄領であり、明治維新後は品川県を経て東京府の所轄となった。
【 万延元年遣米使節子孫の会 】
万延元年(1860年)徳川幕府は初めての遣米使節団を派遣した。この使節団は、米国にとって建国以来、米国外交史上最初に受け入れた外国使節団であり、新見豊前守正興を正使とする使節団77名が派遣された。万延元年遣米使節子孫の会は、その77名の子孫並びに関係者が集い、親睦をはかると共に、史実とその意義を正しく伝え、日米親善の貢献に寄与する事を目的としており、遠藤 潔が会員である徳川宗家柳営会との交流もある。
■ 佐野鼎
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父であり大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の妹君子の夫である佐野清宝石販売佐野商店社長の親戚。天保2年(1831年)駿河国富士郡生まれ、明治10年(1877年)10月24日コレラに罹り47歳急逝。通称は貞助(輔)。江戸に出てオランダ式砲術家下曽根金三郎塾に入り19歳で塾頭。のち長崎の海軍伝習所に学び、安政元年(1854年)加賀藩に洋式兵学校壮猶館が設立されたとき西洋砲術師範方棟取役。安政7年(万延元年1860年)幕府遣米使節に随行「奉使米行航海日記」を著し、文久元年(1861年)の遣欧使節にも加わり明治4年(1871年)廃藩置県後、金沢藩の洋学・砲術・海洋学の講師から兵部省の造兵司正(頭)。