遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

甲賀組由緒書

2018年06月12日
遠藤宗家の先祖である「甲賀百人組」は、「伏見籠城の功績」をもって徳川将軍家から禄を受け、寛永年間に江戸へ移住した。

「甲賀百人組」は、江戸幕府に鉄砲隊として召抱えられた甲賀ゆかりの武士である。正式には四組ある「甲賀組」のうちの「甲賀組」で、組頭として三千石クラスの旗本一名、その下に与力十騎・同心百名が付属しいて江戸城大手三ノ門を守衛した。組頭は享保八年(1923年)以降役高三千石、与力は役高現米八十石ずつ、同心は三十俵二人扶持を給与された。このうち甲賀と関係が深い与力・同心の遠藤宗家などは江戸青山の甲賀町に集住していた。

幕府に提出された「甲賀組由緒書」(国立公文書館蔵)の史料には、甲賀組の与力十人のうち六人の与力について、その先祖となる人物(山岡清兵衛、望月津之助、上野九太郎、高峰新右衛門、滝飛之助、梅田勝右衛門)の来歴が記されてる。

百人組の由緒は、甲賀ゆれ、伏見城籠城戦、慶長二年の召抱え、慶長五年の「十人一同」の召し出し、知行宛行でも在地を離れての仕官を断り在村していることなどが挙げられる。甲賀組は「地侍」共々寛永年間に江戸へ移住したが、それまでは古士たちが求めたような甲賀在村の武士身分者であった。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。