遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

甲賀組由緒書

2018年06月12日
遠藤宗家の先祖である遠藤左太夫が所属していた「甲賀百人組」は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見籠城の戦いで戦死した功績を徳川将軍家より受けた。1643年(寛永20年)甲賀衆の子弟は、徳川幕府の命により甲賀から江戸青山甲賀町へ移住した。

「甲賀百人組」は、江戸幕府に鉄砲隊として召抱えられた甲賀ゆかりの武士である。正式には甲賀組・伊賀組・根来組・廿五騎組の四組あるうちの「甲賀百人組」で、組頭として三千石クラスの旗本一名、その下に与力十騎・同心百名が付属しいて江戸城大手三ノ門を守衛した。組頭は1923年(享保八年)以降役高三千石、与力は役高現米八十石ずつ、同心は三十俵二人扶持を給与された。

幕府に提出された「甲賀組由緒書」(国立公文書館蔵)の史料には、甲賀組の与力十人のうち六人の与力について、その先祖となる人物(山岡清兵衛、望月津之助、上野九郎五郎、高峯新右衛門、瀧飛之助、梅田勝右衛門)の来歴が記されている。

百人組の由緒は、甲賀ゆれ、伏見城籠城戦、1597年(慶長2年)召抱え、1600年(慶長5年)「十人一同」の召し出し、知行宛行でも在地を離れての仕官を断り在村していることなどが挙げられる。甲賀組は「地侍」共々寛永年間に江戸へ移住したが、それまでは古士たちが求めたような甲賀在村の武士身分者であった。


【 甲賀組由緒書 】

                    山岡美作守景冬五男
                        山岡清兵衛
一先祖
 甲賀廿一家之筋目(ニ)而
権現様参州 御住国之砌永禄五戌年二月鵜殿三郎
 長持御退次之儀戸田四郎牧野傳蔵(ヲ)以甲賀廿一家之
 者共(江)被 仰付候(ニ)付早速御請申上同州之者共弐百余
 人参州(江)罷越松井左近忠次之手(ニ)属三月十五日之夜
 鵜殿之城(江)夜討(ニ)入則鵜殿之首(越)取嫡男藤太郎
 長照次男藤三郎弐人生捕其外名有家来弐百余人
 焼討(ニ)仕候(ニ)付不糾被遊 御感悦 御前(江)一統被
 召出御盃被下自今以後(者)甲賀廿一家之者共余所(ニハ)
 被遊 御覧間敷候間廿一家之者共も
 御家之儀疎略奉存間敷旨被 仰出候以後数度御
 密通之御軍役相勤織田信長代瀧川左近将監甲賀
 退治之儀信長(江)再三望申候得共
権現様御執成(ヲ)以其難(越)逃し候不而巳信長より甲賀安
 堵之教書給天正十二申年三月尾州小牧
 御陣之節榊原小平太を以御隠密之御軍役相勤候(ニ)付
 太閤秀吉達聞候得共其沙汰無之其後同年四月
 紀州雑賀之城攻之節無実之科(越)被申掛数代不易
 之本領(越)被取放甲賀郡栗本郡之内所々隠住仕罷
 在候処
権現様達 上聞慶長二酉年加々爪隼人正を以拾人一同被
 召出御合力米拾石被下置伏見於 御城 御目見被
 仰付同五子年会津 御出陣之節御供之儀奉願候処山岡
 道阿弥披露(ニ)而拾人一同 御目見被 仰付 思召
 有之間御留守(ニ)相残可申旨被仰渡為御加増拾人扶持三ヶ月分
 頂戴仕且又地侍拾人(江)三人扶持宛被下置 御出陣乍後
 石田治部少輔逆心仕候(ニ)付同年七月拾人一同(ニ)嫡子新助幷
 地侍拾人召連伏見 御城(江)罷越鳥居彦右衛門(江)相達
 名護屋丸(江)籠城仕候処甲賀之侍福原清左衛門(与)申者
 秀頼之書簡幷増田右衛門尉折紙相添持参於別心仕者
 當座之音物望次第本領相違有之間敷若又於不同心
 者末類迄可行罪科旨以書付申勧候得共同心不仕同国
 永原之者(江)も書簡幷折紙参候処別心仕松之丸(江)火(ヲ)掛
 塀五拾間余切破逃出候間鳥居彦右衛門差圖を以松之丸(ニ)参(リ)
 火(越)消 御城之畳を以囲(越)附持固(メ)候処又々不勢候間
 御本丸(江)ツホミ(窄み)相働可申旨彦右衛門差圖を以相働申候
 然(ニ)七月晦日筑前中納言秀秋(より)扱可申由(ニ)而伊賀之
 侍高井作左衛門直清(与)清兵衛(与越)為相談差出候様
 彦右衛門(江)申来候(ニ)付同人差圖を以晦日之暁作左衛門
 (与)共々筑前中納言之陣(江)参候処同年八月朔日落城
 致候(ニ)付兄道阿弥妻子等引具京都近衛殿(江)引取同
 七寅年二月十九日病死仕候

                    望月紀三郎安重嫡子
                        望月津之助
一先祖
 父紀三郎伊賀国服部村仁宇上村上下領地仕罷在
 候処天正十二申年三月勢州松ヶ嶋之城為加勢籠城仕
 遂防戦討死仕夫より近江国甲賀郡之内領地罷在候処
 太閤秀吉領知被為破却甲賀郡之内隠住仕候段
権現様達 上聞慶長二酉年加々爪隼人正を以被
 召出於伏見 御城 御目見被 仰付御合力米
 拾石被下置同五子年会津(江) 御出陣之砌御供奉
 願候処山岡道阿弥披露(ニ)而拾人一同 御目見被
 仰付思召有之間御留守(ニ)相残可申旨被仰渡為御加増
 拾人扶持三ヶ月分頂戴仕且又地侍拾人(江)三人扶持
 ツツ被下置 御出陣乍後石田治部少輔逆心仕伏見
 御城相攻候由於京都承之地侍共可馳参旨申達
 直(ニ)伏見 御城(江)罷越鳥居彦右衛門(江)相達従途中
 罷越候(ニ)付御軍用之御救具足拝領仕名護屋丸(江)
 籠城仕候処増田右衛門尉内甲賀之侍福原清左衛門
 (与)申者秀頼之書簡幷増田右衛門尉折紙相添
 持参於別心仕者當座之音物望次第本領相違有之
 間敷若又於不同心者末類迄可行罪科旨書付を以
 申勧候得共同心不仕同国永原之者(江)も書簡幷折紙
 参り候処別心仕松之丸(江)火(越)掛塀五拾間余切破逃出
 候間松之丸(江)参り火(越)消候様(ニ与)彦右衛門差圖を以松
 之丸江参り火(越)消留 御城之畳(越)以囲(越)附持
 固(メ)罷在候處又 御本丸無勢(ニ)候間ツホミ可申旨彦
 右衛門差圖(ニ)付 御本丸(江)ツホミ粉骨尽相働候処同年
 八月朔日彦右衛門致切腹及落城候(ニ)付一方打破
 罷出甲賀郡(江)引取同年関ヶ原 御陣相済
 御上洛之節 御前(江)被 召出伏見籠城且落城
 之様子言上仕候処 上意之旨本多佐渡守殿を以
 被仰渡候(者)先達而少分之御合力米被下置候処早速
 伏見(江)馳参無比類働 御感悦被為 思召候依之
 江州甲賀郡野田村(ニて)弐百石余之処被下置向後御
 近習(江)被為 召寄御取立も被遊可被下置候得共甲
 賀郡数代之住居離候儀迷惑可奉存候間諸役
 御免近国雑生 御免被 仰付候間知行所(ニ)
 罷在 御用之節(者)罷出可奉勤仕旨被仰渡
 且又伏見(江)召連候地侍共拾人(江)組合知行弐百石
 被下置組(ニ)被 仰付候間其後代々支配仕来右之通
 被 仰付候(ニ)付太刀折紙を以 御礼申上
権現様
台徳院様 御上洛之節(ニ)毎度京都(江)罷出
 御目見仕同十九寅年大阪冬 御陣之節知行所より
 組之者召連御供仕水野日向守手(ニ)属(シ)御旗本(ニ)罷在
 同二十卯年夏 御陣之節同人(ニ)属(シ)大和口(江)相向
 其節堀尾山城守家来野之山三郎左衛門野中善兵衛
 (与)申(もの)山城守逆心有之由言上仕候(ニ)付御吟味中右
 両人山岡主計(江)御預(ケニ)相来甲賀郡之内鮎河村
 山中(ニ)差置候処元和三巳年右両人山城守(江)被下候間
 疵附不申様召捕可相渡旨御奉書(ニ)而主計(江)被
 仰付候(ニ)付同年十二月晦日同州梅田武左衛門(与)申合御預
 之組之者召連罷越三郎左衛門(ヲ)召捕善兵衛儀(ハ)武左衛門
 召捕家来拾弐人(者)組之もの召捕申候
大猷院様御上洛之度々京都(江)罷出 御目見仕
 寛永七午年老衰(ニ)付奉願隠居仕正保二酉年
 十一月廿一日病死仕候拝領之具足今以所持仕候

                        上野九郎五郎
一先祖
 近江国甲賀郡之内(ニ)住居仕候処太閤秀吉(ニ)被為
 破却所々隠住仕罷在候然処慶長二酉年頭分拾人
 之者被 召出候(ニ)付其節右之者共より加々爪隼人正を以
 奉願候処同五子年
権現様会津 御出陣之砌山岡道阿弥を以被
 召抱三人扶持三ヶ月分被下置甲賀郡(ニ)罷在候処同年
 七月石田治部少輔逆心仕候(ニ)付早速頭分山中福永(ニ)
 附弟三太郎倅金右衛門召連伏見 御城江馳
 参篭城仕於御城中所々防戦仕候処八月朔日
 落城およひ兄弟討死仕候

                      高峯民部宗清嫡子
                        高峯新右衛門
一先祖
 父高峯民部儀江州甲賀郡高峯村小杉村領地仕
 高峯村(ニ)構小城織田信長(ニ)属(シ)罷在天正十二申年
 太閤秀吉領地被為破却甲賀郡之内父(与)共(ニ)所々(ニ)
 隠住仕罷在候処
権現様達 上聞慶長二酉年加々爪隼人正を以
 召出御合力米拾石被下置越伏見於 御城 御目見
 被 仰付在所(ニ)罷在「罷在」同五子年会津(江) 御出陣
 之砌御供奉願候処山岡道阿弥披露(ニ)而 御目見被
 仰付思召有之候間在所(ニ)可相残旨被仰渡為御加増
 拾人扶持三ヶ月分被下置且又地侍共壱人(江)三人
 扶持ツツ被下置 御出陣乍後石田治部少輔逆心仕候
 (ニ)付同年七月地侍共召連伏見 御城(江)相詰鳥居
 彦右衛門(江)申達名護屋丸(江)籠城仕候処秀頼増田
 右衛門尉(ニ)申付右衛門尉内甲賀侍福原清左衛門(与)
 申者秀頼書簡幷(ニ)右衛門尉折紙相添於別心仕者
 当座之音物望次第本領相違有之間敷若此旨於
 不同心者妻子其外末類迄可行罪科旨以書付
 申勧候得共同心不仕同国永原之侍共(江茂)秀頼書簡
 幷折紙参(リ)候処別心仕松之丸(江)火(越)掛(ケ)塀五拾間
 切破逃出候間松之丸(江)参(リ)持固(メ)候様(ニ与)彦右衛門差圖
 (ニ)付馳参火(越)消 御城之畳を以囲(越)附持固
 罷在候処又候 御本丸無勢之間ツホミ候様(ニ与)彦右衛門
 差圖(ニ)付 御本丸(ニ)而粉骨尽相働同年八月朔日
 討死仕候

                    瀧土佐守資清嫡子
                        瀧飛之助
一先祖
 父瀧土佐守儀甲賀二十一家之内(ニ)而江州甲賀郡
 瀧村池田村之内代々領知仕瀧村青木(ニ)構小城織田
 信長属(シ)罷在其後天正十二申年太閤秀吉領知取
 放候以後父(与)共(ニ)甲賀郡之内隠住仕候段
権現様達 上聞慶長二酉年加々爪隼人正を以被
 召出御合力米拾石被下置於伏見 御城
 御目見被 仰付其節地侍共も被 召出被下置候様
 奉願同五子年会津 御出陣之砌御供奉願候処
 山岡道阿弥披露(ニ)而 御目見被 仰付
 思召有之候(ニ)付御留守可相残旨被仰渡為御加増拾人
 扶持三ヶ月分被下置且先達而奉願候地侍共壱人(ニ)
 三人扶持宛被下置 御出陣乍後石田治部少輔
 逆心仕候(ニ)付同年七月地侍共召連伏見
 御城(江)馳参鳥居彦右衛門(江)申達名護屋丸(江)篭
 城仕候処増田右衛門尉家来福原清左衛門(与)申者
 秀頼書簡幷右衛門尉折紙相添持参於別心仕者
 当座之音物望次第本領相違有之間敷若又於
 不同心者妻子族類迄も可磔旨申勧候得共同心不仕
 然処松之丸(江)籠候同国永原之者共(江)も書簡幷折
 紙参(リ)候処別心仕火(ヲ)掛塀五十間余切破逃出候間
 彦右衛門○差圖松之丸(江)参(リ)火(越)消留
 御城之畳を以囲附持固罷在候処又々 御本丸
 無勢候間ツホミ候様得差圖 御本丸(江)ツホミ粉
 骨尽相働彦右衛門致切腹及落城候(ニ)付一方打破
 罷出甲賀郡(江)引取同年関ヶ原 御陣相済
 御上洛被 遊候節 御前(江)被 召出 上意之旨
 本多佐渡守殿を以被仰渡候(者)少分之御合力米被下置候
 処於伏見御忠節申上候段 御感悦被為
 思召候依之近江国甲賀郡油日村高峯村之内(ニ)而高
 弐百石余之処被下置向後御近習之御奉公被
 仰付御取立も被遊可被下置候得共数代之住所離候義
 難儀(ニ)も可奉存候間諸役 御免近国雑生
 御免被 仰付候間知行所(ニ)罷在御用之節罷出可
 奉勤仕旨被 仰渡且又伏見(江)召連候地侍共拾
 人(江)組合知行二百石被下置組(ニ)被 仰付候間被
 仰渡候以後代々支配仕来右(ニ)付太刀折紙を以
 御直御札申上候同六丑年七月廿八日病死仕候

                     梅田勘十郎治重次男
                        梅田勝右衛門
一 先祖
  父勘十郎伊賀国柘植福地(ニ)居城仕同所(ニ)住居仕罷
  在候処天正九巳年九月十一日織田信長家臣池尻平左衛門
  を以伊賀国(越)襲候節柘植福地落城仕候(ニ)付近江国
  甲賀郡之住士和田伊賀守儀伯父(ニ)付同国(ニ)隠住仕
  罷在候処
 権現様達 上聞慶長二酉年加々爪隼人正を以被
  召出御合力米拾石被下置於伏見 御城 御目見被
  仰付同五子年会津 御出陣之砌山岡道阿弥披露
  (ニ)而 御目見被 仰付 思召有之間御留守(ニ)可相
  残旨被仰渡為御加増拾人扶持三ヶ月分頂戴仕且地侍
  共拾人(ニ)三人扶持宛被下置 御出陣乍後石田治部
  少輔逆心仕候(ニ)付地侍共召連伏見 御城(江)馳参候
  途中(ニ)而長束大内蔵大輔防留候得共七月十二日参着
  仕鳥居彦右衛門(江)相達名護屋丸(江)籠城仕候処増田右衛門尉
  内甲賀侍福原清左衛門(与)申もの秀頼之書簡幷右衛門尉
  折紙持参於別心仕者本領(ハ)相違有之間敷若於不同心
  (ハ)末類迄可行罪科旨以書付申勧候得共同心不仕書簡
  焼捨候間清左衛門逃去同国永原之者共(エ)も書簡幷折
  紙参(り)候処源川清十郎初別心仕松之丸(江)火(ヲ)掛(ケ)
  塀五拾間余切破 御城中伐逃出候(ニ)付急(キ)松之丸(江)
  参(リ)持固候様彦右衛門差圖(ニ)付早速火(越)消留
  御城之畳を以囲(越)附持固候処又々 御本丸無勢
  候間 御本丸(江)ツホミ相働候様彦右衛門差圖(ニ)付於
  御本丸防戦仕同年八月朔日討死仕候召連候地侍とも
  (茂)過半討死仕候


【 江戸青山甲賀町百人与力同心姓名録 】
与 力:梅田勘十郎組
先 祖:杉井源八郎      家督相続之姓名:土山得左衛門
    岡本長三郎討死            遠藤左太夫
    服部仲弥               小山伊兵衛
    服部仲弥               服部徳右衛門
    西村五郎作              後藤橘次郎
    小嶋五郎衛門             斉藤定治郎
    藤林九衛門              刈部太兵衛
    杉井四郎               真下平四良
    鵜飼八衛門              為貝猶右衛門


※画像:甲賀組由緒書



■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。