遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤やゑ 迪宮裕仁親王東宮女官

2018年03月01日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖母である遠藤やゑは、迪宮裕仁親王東宮女官職として側近奉仕に従事した。

大正天皇の皇太子である迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)、日本の第124代天皇。明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補をいくつか挙げさせて選定し出生7日目(5月5日)に明治天皇が「称号を迪宮・諱を裕仁」と命名した。

かつて迪宮裕仁親王は、肥後熊本藩54万石の細川越中守下屋敷があった敷地に1914年(大正3年)に高輪東宮御所(御殿)にお移りになり、1916年(大正5年)に執り行われた立太子の礼によって、正式に大正天皇の皇太子となられた。さらに弟宮の宣仁親王が、高松宮邸として引き継がれた。現在、高輪東宮御所の宮邸敷地および邸宅は「高輪皇族邸」として無人のまま宮内庁の管理下に置かれている。

当時の高輪東宮御所で使用されていた黒塗りの門は、国立博物館の敷地内、都道452号線に面する場所にある。これは、かつての旧因州池田屋敷表門で、通称「黒門」と呼ばれていた。かつての旧加賀屋敷御守殿門で現在の東京大学の「赤門」と対比されることの多いこの門は、鳥取藩32万石・池田家上屋敷の表門だった。もとは、江戸城にほど近い、大名屋敷が並んでいた大名小路(現在の丸の内3丁目・帝国劇場)にあったが、1891年(明治24年)に黒門は芝高輪台町(現在の高輪1丁目)の高輪東宮御所に移築されて表門となった。1954年(昭和29年)に現在の場所に移築された。創建年代は不詳だが、江戸末期の建築と推定されており、屋根は入母屋造、左右に向唐破風(むこうからはふ)の番所を備える荘厳重厚な建築で、大名屋敷の門としては最も格式が高い。国の重要文化財に指定されている。

「女官」とは、大内裏において太政官以下の官司に勤務する男性官人に対して「内裏において後宮十二司に職掌を持つ女性官人」を指す。10世紀以後に発生した後宮十二司制度の解体後は、内侍司を中心とする「内裏に仕える女性官人」のことを指したとされる。平安時代と江戸時代の天皇の後宮については比較的豊富に史料が伝存しており、従来考察がなされているが、中世になると、経済的な困窮から天皇の御所(禁裏)の規模が極限まで縮小したこともあり、後宮の内情についてあまり解明されていない。

「女官」という呼称については、8世紀の律令法(後宮職員令)において用いられていた用語は「宮人(くにん/きゅうにん)」であり、これは男性官人と女性官人の区別なく用いられている。女性官人が「女官」と書かれるようになったのは、弘仁年間に編纂された弘仁格式や内裏式に「女官」の語が登場することから、800年前後と考えられている。1869年(明治2年)以後は「じょかん」が正式な読み方とされた。


■ 遠藤やゑ
遠藤潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である遠藤榮大正天皇侍従夫人。遠藤榮大正天皇侍従は、遠藤宗家第十五代当主。高徳寺檀家総代、甲賀稲荷神社氏子大惣代等を歴任。