遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤潔 第十八代遠藤宗家本邸

2018年09月02日
遠藤潔 第十八代遠藤宗家本邸は東京都目黒に位置しており、人材交流・情報交換の活動場所としている。

かつて遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本家)甲賀百人武士は、徳川家康公が天正十八年(1590年)に江戸に入府し、慶長八年(1603年)に同地に幕府を開府し、爾後260年余、徳川将軍家 直参御目見得として日本の統治及び警備役を担った。

遠藤宗家甲賀百人武士は、徳川将軍家が鷹狩り御成りの際、江戸城から目黒周辺の警護をした。徳川家康公においては生涯に1000回以上も鷹狩りを行い、単に楽しむことや権力の誇示だけでなく、他領国の情勢を探ったり、領地の要所に御殿やお茶屋を設置して地方支配の拠点とした。また、農民の生活を視察、家臣の剛弱ぶりを把握、士風刷新に役立てるという、戦国武将としての目的を果たした。

江戸時代の目黒周辺は、駒場原、碑文谷原、広尾原などの未開の地が多く鳥の生息にはきわめて適した土地であった。遠藤宗家甲賀百人武士は、徳川将軍が目黒周辺に遊猟の際、代々警護任務役として随行した。

『徳川実記』によると3代将軍家光公は、目黒周辺に6回、碑文谷原に1回と記録されている。寛永二年(1625年)には目黒不動に立ち寄り、それが機縁で幕府の手により不動堂が建立され、本堂などが修復された。8代将軍吉宗公は、駒場原16万坪を将軍家の鷹狩り場として接収し、御鷹場、拳場、御留場と呼ばれ、その中に目黒筋の御用屋敷、御薬草園なども設けられ鳥見役や綱差役が設置された。

現在の目黒区は目蒲線、東横線の開通を契機として、住宅地や商工業地域として急激に発展し、昭和7年(1932年)に東京市目黒区、昭和18年(1943年)東京都目黒区となった。区内には12の外国大使館があることから、国際交流が盛んな近代住宅・情報都市となった。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。
遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主寛(弁護士)に至る。