遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

栗原家の近世・近代における千川上水管理・地域行政への歴史的貢献

2026年11月03日
1. 江戸城防衛主体と武蔵国水利管理主体の歴史的邂逅
近江国甲賀郡を出自とし、德川将軍家の直参旗本(甲賀百人武士)として江戸城大手三之門「百人番所」の警備および隠密任務を統括した遠藤宗家は、幕藩体制の軍事・防衛中枢において極めて特異かつ枢要な地位を占めてきた。江戸城西側の防衛線を物理的・実戦的に死守し続けた遠藤宗家の血脈は、近代(明治〜昭和期)における重層的な婚姻構造を契機として、武蔵国豊島郡石神井村の地域行政および広域水利管理を主導した在地名望家・栗原家(初代村長・栗原鉚三)と歴史的な合流を果たすこととなる。

栗原家は、近世江戸の巨大インフラおよび周辺農村の農業生産基盤を支えた千川上水(玉川上水からの分水)を巡り、上水管理主体である千川家との緊密な水利交渉・調停において中核的な役割を果たした地域指導者層(惣代格名主)である。本論考では、栗原家が名主・村長として千川家および千川上水とどのように関わり、地域社会の発展と水利インフラの安泰に貢献したかを、同家伝来の測量道具の年代的背景と技術的実態を交え、歴史学、土木史、および社会階層史の観点から学術的に論述する。

2. 明治・昭和期における婚姻を通じた「遠藤宗家」「太田家」「栗原家」の系譜学的統合
明治から昭和期にかけ、石神井村の近代化を牽引し初代村長を務めた栗原鉚三と、その妻・セイの婚姻を契機として、太田道灌公の末裔である太田家を媒介とする縁戚関係を介し、太田家、遠藤宗家、栗原家の血脈は近代において一つへと結実した。

この系譜学的統合は、単なる二家・三家間の私的な縁組にとどまらず、近世幕藩体制下において全く異なる機能を担った二つのエリート層の歴史的邂逅を意味している。すなわち、「軍実績・都市防衛的機能を帯びた幕臣(遠藤宗家)」と、「地方(じかた)社会のインフラおよび行政を実質的に支えた在地領主・在郷知識人層(栗原家)」の統合である。

近代という激動の変革期において、旧特権階級が有する中央の知性と、中世以来の地政学的伝統を引く太田道灌公の系譜、そして在地名望家が持つ強固な地域統治能力・水利管理能力が重層的に結合したことは、明治以降の石神井村における近代地方自治(町村制)の確立と、旧来の近世的水利秩序を円滑に近代インフラへと再編・継承していく過程における強力な推進力となった。いわば「都市の安全保障(武)」と「環境・生産の安全保障(文・農)」の融合が、この系譜学的統合の本質である。

3. 近世「栗原家」による千川上水管理への政治的・実務的貢献と千川家との交渉実態
武蔵国豊島郡上石神井村の名主を世襲した栗原家は、千川上水(千川用水)の恩恵を受ける周辺20か村(のちに拡大)からなる「千川用水組合村」の有力な指導者(惣代格)として、上水管理主体である千川家(千川徳兵衛ら千川両家)との間で、緊密かつ極めて高度な政治的・実務的交渉を重ねていた。その貢献は、単なる一村の行政管理にとどまらず、広域インフラの安泰と持続可能な水利秩序の構築に及んでいた。

(1) 水料米の上納統括と経済的基盤の維持
千川上水の運用と水路維持には、藻刈り、泥上げ、堤の補修費など多額の経費を要した。各組合村は田畑の面積(石高)や分水口の規模に応じて、金銭や「水料米」を千川家へ支払う義務を負っていた。栗原家は上石神井村における水料米の徴収と割当を厳格に管理しただけでなく、組合村全体の財政調整や千川家への上納実務を主導し、広域インフラ維持のための経済的循環を底流から支える基盤として多大なる貢献を果たした。

(2) 危機管理における強固な調停・交渉力の発揮
千川上水は水量に限度があり、干魃期には深刻な「水不届(みずふとどき)」が発生し、上流と下流の村々の間で激しい「水喰拾合(みずくいあい=水利紛争)」が勃発した。明和八年(1771年)3月、上石神井村の百姓が水不足の焦燥から、千川上水の管理体制に違背して分水口を損壊するという不祥事(損壊事件)を起こした際、名主である栗原家は直ちに事態の収拾に奔走した。
栗原家は村役人層を統率して千川両家に対し、百姓の「心得違い(分別なさ)」を深く謝罪する「わび状(一札之事)」を提出し、違法行為に対する厳格な内規での処罰と再発防止を約束した。この迅速かつ粘り強い謝罪・交渉により、千川家からの全面的な給水停止という最悪の事態(村の農業壊滅)を回避し、安定的かつ継続的な用水供給を確保することに成功した。これは栗原家が、幕府公認のインフラ管理者(千川家)と末端農民との間に立つ「重層的な媒介者(ミドルマン)」として卓越した危機管理能力を有していたことを示している。

(3) 水利環境の保全と不法行為の抑制
文化六年(1809年)4月、千川用水組合村の間で交わされた「議定証文」に代表されるように、栗原家は新しく水車を設置して水流を堰き止めようとする百姓や他村の動きを事前に察知し、これを内々に差し止める強力な取締権限(内済・説得の指導力)を発揮した。このように、時には厳格な法執行者として、時には柔軟な調停者として振る舞った栗原家の存在は、千川上水330年の歴史における最大の推進力であったと言える。

4. 栗原家所蔵の測量道具にみる科学的インフラ管理と「技術官僚」としての実態
練馬区立石神井公園ふるさと文化館の特別展「水を守る―千川家と千川上水の330年―」(会期:2026年9月12日~11月3日)において出陳された栗原家所蔵の測量道具一式(【図1】参照:真鍮製象限儀、覗き窓付き方位盤、木製ケース入り巻尺、および測量関連古文書)は、同家が単に文字による行政通達を行うだけでなく、高度な科学的知見と土木技術を兼ね備えた「技術官僚(テクノクラート)」としての側面を実証する一級の学術資料である。

これらの道具が栗原家に導入され、実戦的に運用され始めた年代的背景は、18世紀中頃(江戸時代中期・宝暦〜天明期)から18世紀後期にかけてである。この時代、武蔵野台地では幕府主導の新田開発(武蔵野新田の開発)が最盛期を迎え、それに伴い日本独自の優れた幾何学・測量技術である「規矩術(きくじゅつ)」や「和算」が、地方の知識人層(名主・豪農層)へ急速に普及・定着していった。栗原家におけるこれら測量道具の技術的・科学的運用実態は以下の通りである。

【図1:栗原家所蔵「名主が使った測量道具」の構成要素】
・右奥:真鍮製象限儀(角度・高低差計測用の木製台座付き器具)
・手前中央:覗き窓・水準器付き方位盤(走向・方位決定用の羅針盤)
・左奥:木製回転ハンドル付き巻尺(距離測定用の繩尺・金属尺収納具)
・手前左右:名主の測量実態を示す解説パネルおよび測量手控え・古文書

(1) 「規矩術」による水路走向の算定と幾何学的設計
方位盤(羅針盤)と真鍮製分度規(象限儀の目盛枠)を組み合わせ、規矩術における「矩(直角)」や特定の傾斜角(勾配)を現場に現出し、水路の「走向」を数理的に決定した。武蔵野台地は東に向かって緩やかに傾斜する平坦な地勢であり、肉眼では正確な高低差の判別が極めて困難である。わずか数センチメートルの狂いが水の滞留や逆流を招くため、栗原家は規矩術が持つ「円や直線の幾何学的分割技法」を応用し、千川上水の本流から自村へ導く分水路の開削・屈曲部における水流抵抗を最小限に抑える設計・施工を自ら算定・指揮した。

(2) 「和算」と水準器による高低差・勾配(斜度)の精密計算法
土木用語における「水盛(みずもり=水平出し)」と「見通(みとおし=標尺を用いた直線視準)」の技法を用い、方位盤に備えられた視準用の覗き窓や水準機構によって基準点から引き込み先までの「下げ高(高低差)」を連続的に観測した。
得られた水平距離と高低差のデータに対し、和算の「比例計算(三率法など)」や「勾股弦の法(こうこげんのほう=直角三角形の定理の和算表現)」を適用し、100間(約181メートル)あたり数寸という極めて緩やかな「至適勾配」を割り出した。この数理的算定により、土砂の堆積を防ぎつつ、過度な流速による堤防の欠壊を起こさない完璧な水路斜度を物理的に維持したのである。

(3) 分水口・水門の技術的規格化と三次元流体管理
千川家との取り決めに従い、許可された一定量の水(水量制限)を正確に自村へ引き入れるため、水門や分水口の「横幅」および「深さ」を分度規や定規を用いて正確に計測・維持した。江戸時代における給水制限は、主に「寸分配(すんわけ)」(分水枠の尺角による開口部制限)によって厳格に定められていた。
栗原家は流体力学的な観点から、水門の開口面積と水深(水圧)の関係を和算的に把握し、出水期や干魃期における流量の変化を科学的に予測・管理した。この測量道具の運用は、千川家側に対するデータに基づいた客観的な技術証明となり、水利権の過不足を巡る相互の信頼関係を科学的に担保する強力な手段となった。

(4) 検地(土地測量)と年貢割当における導出フェーズ
組合村の「村入用(村の経費)」や幕府への「年貢」を百姓へ公平に割り付けるため、田畑の作付面積を正確に算定(検地・惣図の作成)する必要があった。栗原家は、ハンドル付きの頑強な巻尺を用いて複雑な地形の田畑を計測し、複数の直角三角形や長方形に擬似分割して、和算の面積割付計算法を用いて総面積を精密に導出した。自ら測量道具を担いでフィールドワーク(現地踏査)を行い、精密な「絵図(村図・水路図)」を惹起することで、地域行政の透明性と公平性を強固なものとした。

5. 水利秩序の近代地方自治への継承とその歴史的意義
千川上水330年の歴史は、千川家という幕府公認のインフラ管理者の権威と、栗原家に代表される在地名主層の「卓越した技術力」および「広域的な調停力」の双輪によって支えられてきた。栗原家が所蔵・運用した測量道具は、同家が単なる行政の伝達者ではなく、和算や規矩術を駆使して巨大人工河川を維持・管理した「在郷テクノクラート(技術官僚)」であったことを雄弁に物語っている。

近世の水利インフラ管理において培われた栗原家の数理的知見、危機管理能力、そして広域的な調整能力は、明治期の町村制施行に伴う「石神井村」誕生の局面において、初代村長・栗原鉚三の近代地方行政手腕へと地続きで継承された。さらに、近代における太田道灌公の末裔たる太田家、および幕臣「遠藤宗家」との系譜学的統合は、中央の安全保障の精神と地政学的知性を石神井の地に融和させ、旧来の水利秩序を円滑に近代都市インフラへと再編する強力なエンジンとなった。

千川上水という1本の水路を守り抜いた栗原家の科学的精神と統治の系譜は、近代地方自治の礎となり、現代の緑と水の豊かな石神井の都市環境を形作る歴史的伏線として、今なお深く息づいている。