1. 遠藤宗家と太田道灌公の系譜的紐帯および近代における歴史の統合
江戸・東京の繁栄の礎を築いた太田道灌(資長)公の末裔(太田直系家)と、近江国甲賀郡を出自とし德川将軍家の直参旗本(甲賀百人武士)として江戸城を守護し続けた遠藤宗家は、近代における婚姻を通じて重層的な血縁・縁戚関係を結んでいる。
① 栗原家を仲介とする三家連結の婚姻構造
明治から昭和期にかけ、旧武蔵国豊島郡石神井村村長を務めた栗原鉚三氏と、貞明皇后(大正天皇の皇后)の女官として宮中に仕えたセイ夫人との婚姻を契機として、日本の近世を象徴する二つの武家名門(太田家・遠藤家)を繋ぐ系譜の結節点が形成された。
• 遠藤宗家への血脈の合流: 栗原夫妻の娘である里子が、遠藤宗家第十六代当主・遠藤武の妻として嫁した。
• 太田家直系への血脈の合流: 里子の実の姉妹である孝子が、太田道灌公の直系子孫であり太田家当主である太田資英 氏の夫人として嫁した。
② 現代当主における血縁的・系譜的位置づけ
この緊密な婚姻関係により、太田道灌公の直系子孫に嫁いだ孝子と、遠藤宗家第十六代当主・遠藤武に嫁いだ里子が実の姉妹という関係になる。これにより、次代の第十七代当主・遠藤寛(辯護士)と、太田道灌公の子孫である太田資和様が従兄弟の間柄となった。
この確固たる血脈の繋がりにより、太田道灌公は「祖母方の縁戚」として明確に位置づけられている。中世において江戸城の縄張(基本設計)を行い都市の礎を築いた太田家の血統と、近世において江戸城の心臓部を守護し続けた甲賀百人組の伝統が、近代の婚姻を通じて一つの系譜へと結実した点は、系譜学においても稀有かつ極めて象徴的な歴史の統合であると言える。
2. 江戸城築城の歴史的変遷と甲賀武士の入府プロセス
① 太田道灌公による開拓と平川城(中世江戸城)の地政学的優位性
室町時代後期の長禄元年(1457年)、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌公によって江戸城が築城された。当時の江戸城は、武蔵野台地の東端にあたる突出した権現山の地形を巧みに利用した、切岸(人為的な崖)、土塁、水堀に囲まれた三重の堅固な構造(子城・中城・外城)を成していた。
道灌公の居所である「静勝軒(じょうしょうけん)」からは、東に筑波山、西に富士山を望むことができたと伝わる。当時の地理的特徴として、城の南側には「日比谷入江」と呼ばれる広大な浅海が最奥部まで入り込んでおり、そこに利根川水系の本流であった平川(現在の日本橋川・神田川の元流)の河口が位置していた。この平川河口の町場は、水上交通と陸上交通が交差する要衝であり、道灌公の築城によって、それまでの一地方から諸国の物資や商人が集う交易の拠点へと昇華した。
② 德川幕府の東国統治戦略と甲賀武士団(遠藤宗家)の江戸移住
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐後、徳川家康公の江戸入国を契機として、中世の平川城は大規模な天下普請を経て、広大な内堀・外堀を巡らせた巨大要塞へと変貌を遂げる。この都市改造と並行し、関ヶ原の戦い慶長五年(1600年)や大坂の陣の慶長十九年~慶長二十年 / 元和元年(1614年〜1615年)等において德川家へ格別の忠義を示し、隠密・探索・銃撃戦に優れた近江の甲賀武士団(甲賀衆)が、直参の御目見得旗本(抱席旗本)として江戸へと召し抱えられた。遠藤宗家をはじめとする甲賀衆は、家康公の江戸入国当初は神田や四谷周辺に割当地を得ていたが、幕府の都市計画の進展に伴う歴史的変遷を経て、青山百人町甲賀屋敷や千駄ヶ谷甲賀屋敷を拝領して定着した。さらに権田原に広大な鉄砲場(射撃訓練場)を賜り、軍事集団としての即応体制を維持しながら江戸城防衛の中核を担うこととなった。
3. 大手三之門「百人番所」の構造と甲賀百人組が帯びた軍事・隠密任務
① 百人番所の空間的配置と四組交代制の防衛システム
德川期の江戸城において、本丸御殿および将軍居住区へと通じる最重要の防衛ライン・検問所が、大手門から入り、下乗門(大名が駕籠を降りる門)の手前に位置する「大手三之門(大手三ノ門)百人番所」である。現存する江戸城遺構の中でも最大の規模を誇り、長さ50メートルを超える長屋状の兵舎構造を持つ。
この百人番所の警備を担当したのが、幕府の精鋭部隊である「鉄砲百人組(百人組)」である。百人組は以下の四組によって構成されていた。
• 甲賀組(近江甲賀郡の武士を起源とする部隊。遠藤宗家が属する)
• 伊賀組(三重伊賀の武士を起源とする部隊)
• 根来組(紀伊根来寺の鉄砲集団を起源とする部隊)
• 二十五騎組(黒坂組を起源とする譜代席の部隊)
各組はそれぞれ与力20人・同心100人で組織され、これら四組が昼夜を問わず24時間体制で交代しながら百人番所に詰めた。常時100人の同心が鉄砲を装備して整列・警護にあたっていたことが「百人番所」という呼称の由来であり、城内における最大かつ最後の軍事検問所として機能していた。
② 甲賀百人組の組織構造と複合的任務(平時・有事・隠密)
甲賀百人組は、老中支配ではなく、将軍の側近に近い「若年寄」の支配に属する幕府直轄の独立精鋭部隊(高火力・機動部隊)であった。彼らは平時における諸大名の監視から、有事における将軍の安全確保にいたるまで、極めて多層的な任務を帯びていた。
a. 平時における江戸城本丸の厳重警衛および検問任務
o 大手三之門百人番所に駐屯し、登城する諸大名、供回り、裏使いたちの身元を厳重に検問した。将軍のお膝元である本丸御殿への不審者の侵入、武器の持ち込み、または突発的なクーデター(政変)を未然に防ぐ水際対策としての役割を担った。
b. 将軍御成(外出)時における格式高い警固・山門前警備
o 将軍が江戸城外へ外出(御成)する際、特に将軍家菩提寺である「徳川家両山」(上野・寛永寺、芝・増上寺)への参詣や、日光東照宮への日光社参の際、道中の沿道警備および主要な山門前を固める任務を担った。これは単なる警備にとどまらず、幕府の軍事威信を誇示する厳かな儀礼的任務でもあった。
c. 有事・落城危機における「将軍避難路(甲州街道)の防護」と撤退戦ルートの確保
o 万が一、外敵の侵入や大火によって江戸城が落城の危機に瀕した際、将軍を四谷御門・内藤新宿から甲州街道を経由させ、天領の要塞である「甲府城」へと安全に退避させるための非常時動員部隊として機能した。甲賀組の組屋敷が青山・千駄ヶ谷・四谷という江戸城の西側(甲州街道の結節点)に集中して配置されていたのは、この避難ルートを物理的に防御し、追手を食い止めるという幕府の高度な防衛戦略(都市計画)に基づいたものである。
d. 城内防災、大奥護衛、および国家警察的隠密活動
o 甲賀武士特有の高度な身体能力や情報収集能力(甲賀流の伝承)を活かし、城内火災の際の緊急消火・避難誘導を担った。また、時代が下るにつれて、本丸の奥深くに位置する大奥の夜間警護や、お庭番に準ずる隠密活動、幕府の体制維持のための国家警察的な情報探索活動など、特命任務をも徐々に帯びるようになった。
1. 遠藤宗家と太田道灌公の系譜的紐帯および近代における歴史の統合
江戸・東京の繁栄の礎を築いた太田道灌(資長)公の末裔(太田直系家)と、近江国甲賀郡を出自とし德川将軍家の直参旗本(甲賀百人武士)として江戸城を守護し続けた遠藤宗家は、近代における婚姻を通じて重層的な血縁・縁戚関係を結んでいる。
① 栗原家を仲介とする三家連結の婚姻構造
明治から昭和期にかけ、旧武蔵国豊島郡石神井村村長を務めた栗原鉚三氏と、貞明皇后(大正天皇の皇后)の女官として宮中に仕えたセイ夫人との婚姻を契機として、日本の近世を象徴する二つの武家名門(太田家・遠藤家)を繋ぐ系譜の結節点が形成された。
• 遠藤宗家への血脈の合流: 栗原夫妻の娘である里子が、遠藤宗家第十六代当主・遠藤武の妻として嫁した。
• 太田家直系への血脈の合流: 里子の実の姉妹である孝子が、太田道灌公の直系子孫であり太田家当主である太田資英 氏の夫人として嫁した。
② 現代当主における血縁的・系譜的位置づけ
この緊密な婚姻関係により、太田道灌公の直系子孫に嫁いだ孝子と、遠藤宗家第十六代当主・遠藤武に嫁いだ里子が実の姉妹という関係になる。これにより、次代の第十七代当主・遠藤寛(辯護士)と、太田道灌公の子孫である太田資和様が従兄弟の間柄となった。
この確固たる血脈の繋がりにより、太田道灌公は「祖母方の縁戚」として明確に位置づけられている。中世において江戸城の縄張(基本設計)を行い都市の礎を築いた太田家の血統と、近世において江戸城の心臓部を守護し続けた甲賀百人組の伝統が、近代の婚姻を通じて一つの系譜へと結実した点は、系譜学においても稀有かつ極めて象徴的な歴史の統合であると言える。
2. 江戸城築城の歴史的変遷と甲賀武士の入府プロセス
① 太田道灌公による開拓と平川城(中世江戸城)の地政学的優位性
室町時代後期の長禄元年(1457年)、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌公によって江戸城が築城された。当時の江戸城は、武蔵野台地の東端にあたる突出した権現山の地形を巧みに利用した、切岸(人為的な崖)、土塁、水堀に囲まれた三重の堅固な構造(子城・中城・外城)を成していた。
道灌公の居所である「静勝軒(じょうしょうけん)」からは、東に筑波山、西に富士山を望むことができたと伝わる。当時の地理的特徴として、城の南側には「日比谷入江」と呼ばれる広大な浅海が最奥部まで入り込んでおり、そこに利根川水系の本流であった平川(現在の日本橋川・神田川の元流)の河口が位置していた。この平川河口の町場は、水上交通と陸上交通が交差する要衝であり、道灌公の築城によって、それまでの一地方から諸国の物資や商人が集う交易の拠点へと昇華した。
② 德川幕府の東国統治戦略と甲賀武士団(遠藤宗家)の江戸移住
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐後、徳川家康公の江戸入国を契機として、中世の平川城は大規模な天下普請を経て、広大な内堀・外堀を巡らせた巨大要塞へと変貌を遂げる。この都市改造と並行し、関ヶ原の戦い慶長五年(1600年)や大坂の陣の慶長十九年~慶長二十年 / 元和元年(1614年〜1615年)等において德川家へ格別の忠義を示し、隠密・探索・銃撃戦に優れた近江の甲賀武士団(甲賀衆)が、直参の御目見得旗本(抱席旗本)として江戸へと召し抱えられた。遠藤宗家をはじめとする甲賀衆は、家康公の江戸入国当初は神田や四谷周辺に割当地を得ていたが、幕府の都市計画の進展に伴う歴史的変遷を経て、青山百人町甲賀屋敷や千駄ヶ谷甲賀屋敷を拝領して定着した。さらに権田原に広大な鉄砲場(射撃訓練場)を賜り、軍事集団としての即応体制を維持しながら江戸城防衛の中核を担うこととなった。
3. 大手三之門「百人番所」の構造と甲賀百人組が帯びた軍事・隠密任務
① 百人番所の空間的配置と四組交代制の防衛システム
德川期の江戸城において、本丸御殿および将軍居住区へと通じる最重要の防衛ライン・検問所が、大手門から入り、下乗門(大名が駕籠を降りる門)の手前に位置する「大手三之門(大手三ノ門)百人番所」である。現存する江戸城遺構の中でも最大の規模を誇り、長さ50メートルを超える長屋状の兵舎構造を持つ。
この百人番所の警備を担当したのが、幕府の精鋭部隊である「鉄砲百人組(百人組)」である。百人組は以下の四組によって構成されていた。
• 甲賀組(近江甲賀郡の武士を起源とする部隊。遠藤宗家が属する)
• 伊賀組(三重伊賀の武士を起源とする部隊)
• 根来組(紀伊根来寺の鉄砲集団を起源とする部隊)
• 二十五騎組(黒坂組を起源とする譜代席の部隊)
各組はそれぞれ与力20人・同心100人で組織され、これら四組が昼夜を問わず24時間体制で交代しながら百人番所に詰めた。常時100人の同心が鉄砲を装備して整列・警護にあたっていたことが「百人番所」という呼称の由来であり、城内における最大かつ最後の軍事検問所として機能していた。
② 甲賀百人組の組織構造と複合的任務(平時・有事・隠密)
甲賀百人組は、老中支配ではなく、将軍の側近に近い「若年寄」の支配に属する幕府直轄の独立精鋭部隊(高火力・機動部隊)であった。彼らは平時における諸大名の監視から、有事における将軍の安全確保にいたるまで、極めて多層的な任務を帯びていた。
a. 平時における江戸城本丸の厳重警衛および検問任務
o 大手三之門百人番所に駐屯し、登城する諸大名、供回り、裏使いたちの身元を厳重に検問した。将軍のお膝元である本丸御殿への不審者の侵入、武器の持ち込み、または突発的なクーデター(政変)を未然に防ぐ水際対策としての役割を担った。
b. 将軍御成(外出)時における格式高い警固・山門前警備
o 将軍が江戸城外へ外出(御成)する際、特に将軍家菩提寺である「徳川家両山」(上野・寛永寺、芝・増上寺)への参詣や、日光東照宮への日光社参の際、道中の沿道警備および主要な山門前を固める任務を担った。これは単なる警備にとどまらず、幕府の軍事威信を誇示する厳かな儀礼的任務でもあった。
c. 有事・落城危機における「将軍避難路(甲州街道)の防護」と撤退戦ルートの確保
o 万が一、外敵の侵入や大火によって江戸城が落城の危機に瀕した際、将軍を四谷御門・内藤新宿から甲州街道を経由させ、天領の要塞である「甲府城」へと安全に退避させるための非常時動員部隊として機能した。甲賀組の組屋敷が青山・千駄ヶ谷・四谷という江戸城の西側(甲州街道の結節点)に集中して配置されていたのは、この避難ルートを物理的に防御し、追手を食い止めるという幕府の高度な防衛戦略(都市計画)に基づいたものである。
d. 城内防災、大奥護衛、および国家警察的隠密活動
o 甲賀武士特有の高度な身体能力や情報収集能力(甲賀流の伝承)を活かし、城内火災の際の緊急消火・避難誘導を担った。また、時代が下るにつれて、本丸の奥深くに位置する大奥の夜間警護や、お庭番に準ずる隠密活動、幕府の体制維持のための国家警察的な情報探索活動など、特命任務をも徐々に帯びるようになった。
4. 総括:系譜学および幕藩体制軍事史における遠藤宗家の意義
太田道灌公によって15世紀半ばに「中世の平川城」として産声を上げた江戸城は、17世紀に德川幕府の成立を経て、甲賀百人組をはじめとする直参精鋭部隊の鉄壁の防衛網を備えた、世界屈指の「巨大要塞都市・江戸」へと昇華を遂げた。歴史の変遷の中で、遠藤宗家は二重の極めて重要な位置づけを占めている。第一に、近代における重層的な婚姻を通じ、江戸城の「創始者」である太田道灌公の血脈を現代へと受け継ぐ正統な縁戚であるという点。第二に、江戸時代を通じて江戸城の「心臓部(大手三之門・百人番所)」を実戦的・隠密的に守護し続けた甲賀衆の当事者・リーダーとしての系譜を保持しているという点である。