遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

山岡景友と甲賀百人組の創設にみる主従紐帯の起点

2026年08月01日
近世武家権力における直臣団の形成過程において、戦功や殉死といった「集団的記憶」は、単なる美談にとどまらず、新たな組織(職制)を創設し、特定の居住地(地縁)を配領するための強力な政治的契機として機能する。慶長五年(1600年)の関ヶ原の前哨戦である伏見城籠城戦において、遠藤宗家の始祖・遠藤左太夫をはじめとする甲賀武士団が遂げた玉砕(殉死)は、德川家康公の側近たる山岡景友の政治的周旋を経て、「甲賀百人組(百人同心)」の創設へと直結した。この伏見城の悲劇と「血天井」をめぐる供養の精神構造が、いかにして江戸・青山における甲賀衆の地縁の起点となり、世襲的組織へと昇華したかを考察する。

1. 山岡景友の政治的媒介と「甲賀百人組」の制度的創設
織田・豊臣期を通じて近江の諸勢力や宗教界に太いパイプを持っていた山岡景友(道阿弥)は、戦国期中世的な「甲賀衆の個々の紐帯」を、近世德川藩制下の「組織的官僚制」へと昇華させる結節点(キーマン)であった。
青山百人町・千駄ヶ谷に組屋敷・知行を拝領 = 江戸城西方の防衛線形成
•遺族の結集と身分的インセンティブ
伏見城戦後、家康の命を受けた山岡景友は、戦死した遠藤左太夫ら甲賀衆の遺族・子孫を探索・召集した。これは、父祖の殉死という「最大の精忠」に対し、その血縁を德川幕府の直臣(与力・同心)として世襲的に雇用・保障するという、德川権力による最大級の恩顧の提示であった。
•軍事・職能の官僚化
景友の統率のもと、慶長七年(1602年)頃までに「甲賀百人組」が正式に創設された。彼らは德川家康公の側近(山岡景友)を組頭(管理職)として仰ぐことで、それまでのインディペンデントな「在郷武士」の性格を完全に脱却し、将軍の身辺警護と江戸城外郭(青山・千駄ヶ谷)の防衛を担う「軍事官僚組織」へと再編された。

2. 「血天井」の供養にみる精神的紐帯と世襲的忠誠の再生産
伏見城の遺構である床板は、非業の死を遂げた武士たちの血痕が残る「血天井」として京都の養源院や正伝寺、宝泉院などに分祀・供養された。この物質的・宗教的な供養のプロセスは、德川権力と甲賀百人組の主従関係を心理的に拘束するイデオロギー装置として機能した。
•殉死の視覚化と聖遺物(遺構)化
激戦により自刃した武士たちの血が染み込んだ伏見城の床板を、寺院の「天井」として祀り、永代供養に付す行為は、単なる戦死者の慰霊ではない。それは、德川家の覇権が「甲賀衆らの尊い犠牲(血)」によって確立されたという、主従間の不可逆的な負債・恩顧関係を物質的に視覚化・聖遺物化する空間政治学であった。
•高徳寺における過去帳の機能
遠藤宗家らが開基した赤坂青山北町の「高徳寺」の過去帳第一巻には、この伏見城で戦死した「遠藤左太夫ら七十名」の合祀記録が内包されている。京都の血天井供養が「国家・教団規模の顕彰」であるならば、江戸の高徳寺における供養は、甲賀百人組の内部における「我らは血の犠牲によって結ばれた運命共同体である」という集合的記憶を世襲的に再生産する装置であった。この精神的紐帯が、世代を超えた「絶対的忠誠」を内面化させる基盤となった。

3. 青山百人町への空間的配置と「地縁・血縁」の固定化
山岡景友による創設と、伏見城の悲劇の記憶は、江戸における甲賀武士団の居住空間(青山・千駄ヶ谷)の決定に決定的な影響を与えた。
•血縁から地縁へのトランスレート
伏見城の遺族として召集された甲賀衆(血縁)は、江戸の「青山百人町」という特定の都市空間に集団で組屋敷(三千余坪の宅地など)を宛行われた。これにより、近江という旧領の地縁を喪失した彼らは、江戸の青山において「伏見の犠牲という血縁で結ばれた新たな地縁」を現出させることに成功した。
•職能と一体化した空間維持
彼らの居住地は、江戸城大手三門(百人番所)への出仕の利便性を考慮されると同時に、西の政敵(豊臣系大名や西方からの脅威)に対する防衛線として機能した。景友が敷いたこの組織・空間設計により、甲賀百人組は幕末に至るまで、青山・千駄ヶ谷の地から離れることなく、世襲的にその職能を維持・固定化することができたのである。

山岡景友による甲賀百人組の創設と、伏見城戦の遺族をめぐる供養の構造は、近世德川権力が一地方の武士団をいかにして自らの「中核的直臣」へと純化させたかを示す極めて実証的な事例である。「神君伊賀越え」段階の偶発的な協力関係は、伏見城における遠藤左太夫らの壮絶な殉死によって、德川家にとって「返すべき最大級の義理」へと昇華した。山岡景友はこの「血の負債」を政治的に媒介し、遺族を集結させることで「甲賀百人組」という強固な軍事組織を現出させた。

そして、京都の「血天井」や江戸・高徳寺の「過去帳」にみる供養の精神構造は、その忠誠の記憶を聖なるものとして世襲化し、彼らが拝領した赤坂青山北町・千駄ヶ谷の地を「忠義の血縁が生み出した新たな近世的地縁(青山百人町)」として固定化させるに至ったのである。