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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
御府内場末往還其外沿革図書 拾八
2026年07月02日
【 甲賀百人組と遠藤宗家の歴史的基盤 】
甲賀百人組は、德川家康公の関東入国に従った甲賀衆によって編成された鉄砲百人組の一つである。
•組織構成
与力25騎・同心100人を1組とし、江戸城大手三門(大手門・桜田門・下乗門)の警備(百人番所)を主務としていた。
•遠藤宗家の地位
始祖・遠藤左太夫らは伏見城の戦いにおける功績から德川家康公に召し抱えられ、代々、甲賀組百人同心として将軍直参(御目見得)の地位を世襲した。德川将軍の「隠密」としての情報収集や、有事の際の遊撃部隊としての性格を帯びていた。
【 移転の経緯と『沿革図書』に見る地誌的変遷 】
当初、甲賀組は青山百人町(現在の港区北青山3丁目付近)に拝領地を持っていたが、江戸市街の拡大に伴い、より郊外の「場末」へと移転を余儀なくされた。
•千駄ヶ谷への集結
『御府内場末往還其外沿革図書 拾八』の記録によれば、延宝年間から幕末にかけて、現在の渋谷区・新宿区にまたがる「千駄ヶ谷甲賀町」へと拠点を移した。
•土地形態(大縄地:おおなわち)
組全体に一括して土地を貸与する「大縄地」として拝領された。これにより、職住一体の軍事コミュニティが形成されていた。
【 拾八巻が示す対象地域の構造 】
本書は、現在の新宿区・渋谷区・中野区・港区の境界線が複雑に入り組むエリアを網羅している。
•主要地域
青山、千駄ヶ谷、原宿、代々木、渋谷、四谷、幡ヶ谷。
•軍事的配置
権田原鉄砲場(現・明治神宮外苑):遠藤宗家をはじめとする組衆が射撃訓練を行った場所である。
焔硝蔵(火薬庫 / 現・新宿高校付近):千駄ヶ谷村に配置され、甲賀組が管理・警護に関与していた。
【 学術的価値:土地利用の変遷と都市形成 】
『御府内場末往還其外沿革図書』は幕府普請方が作成した公文書であり、その学術的価値は以下の点に集約される。
•空間的連続性の証明
嘉永三年(1850年)頃の武家地・寺社・町屋の境界を、延宝年間まで遡って比較検討できる唯一の公的な通史地図である。
•行政地名の起源
明治五年(1872年)に誕生した「千駄ヶ谷甲賀町」が、江戸時代の「甲賀組大縄地」という軍事的な土地区分に由来することを実証している。
•近代化の素地
明治以降、遠藤宗家らの屋敷地や鉄砲場が「陸軍練兵場」へと転用され、現在の「明治神宮外苑」へと再編された都市計画の源流を読み解くことができる。
【 結論と継承 】
遠藤宗家を中心とする甲賀百人組は、江戸の防衛のみならず、千駄ヶ谷という地域のアイデンティティを形成した主役であった。
•信仰の継承
屋敷地内に祀られていた「甲賀稲荷」は、現在、千駄ヶ谷の総鎮守である『鳩森八幡神社』に合祀され、今なお地域の守護神として尊崇されている。
•史料の重み
『沿革図書 拾八』は、消え去った武士の町「甲賀町」の記憶を現代に繋ぐ、最も精密な座標軸といえる。
画像:御府内場末往還其外沿革図書
■ 遠藤宗家
第五十代・桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主・遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主・遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主・遠藤寛(辯護士)に至る。
甲賀百人組は、德川家康公の関東入国に従った甲賀衆によって編成された鉄砲百人組の一つである。
•組織構成
与力25騎・同心100人を1組とし、江戸城大手三門(大手門・桜田門・下乗門)の警備(百人番所)を主務としていた。
•遠藤宗家の地位
始祖・遠藤左太夫らは伏見城の戦いにおける功績から德川家康公に召し抱えられ、代々、甲賀組百人同心として将軍直参(御目見得)の地位を世襲した。德川将軍の「隠密」としての情報収集や、有事の際の遊撃部隊としての性格を帯びていた。
【 移転の経緯と『沿革図書』に見る地誌的変遷 】
当初、甲賀組は青山百人町(現在の港区北青山3丁目付近)に拝領地を持っていたが、江戸市街の拡大に伴い、より郊外の「場末」へと移転を余儀なくされた。
•千駄ヶ谷への集結
『御府内場末往還其外沿革図書 拾八』の記録によれば、延宝年間から幕末にかけて、現在の渋谷区・新宿区にまたがる「千駄ヶ谷甲賀町」へと拠点を移した。
•土地形態(大縄地:おおなわち)
組全体に一括して土地を貸与する「大縄地」として拝領された。これにより、職住一体の軍事コミュニティが形成されていた。
【 拾八巻が示す対象地域の構造 】
本書は、現在の新宿区・渋谷区・中野区・港区の境界線が複雑に入り組むエリアを網羅している。
•主要地域
青山、千駄ヶ谷、原宿、代々木、渋谷、四谷、幡ヶ谷。
•軍事的配置
権田原鉄砲場(現・明治神宮外苑):遠藤宗家をはじめとする組衆が射撃訓練を行った場所である。
焔硝蔵(火薬庫 / 現・新宿高校付近):千駄ヶ谷村に配置され、甲賀組が管理・警護に関与していた。
【 学術的価値:土地利用の変遷と都市形成 】
『御府内場末往還其外沿革図書』は幕府普請方が作成した公文書であり、その学術的価値は以下の点に集約される。
•空間的連続性の証明
嘉永三年(1850年)頃の武家地・寺社・町屋の境界を、延宝年間まで遡って比較検討できる唯一の公的な通史地図である。
•行政地名の起源
明治五年(1872年)に誕生した「千駄ヶ谷甲賀町」が、江戸時代の「甲賀組大縄地」という軍事的な土地区分に由来することを実証している。
•近代化の素地
明治以降、遠藤宗家らの屋敷地や鉄砲場が「陸軍練兵場」へと転用され、現在の「明治神宮外苑」へと再編された都市計画の源流を読み解くことができる。
【 結論と継承 】
遠藤宗家を中心とする甲賀百人組は、江戸の防衛のみならず、千駄ヶ谷という地域のアイデンティティを形成した主役であった。
•信仰の継承
屋敷地内に祀られていた「甲賀稲荷」は、現在、千駄ヶ谷の総鎮守である『鳩森八幡神社』に合祀され、今なお地域の守護神として尊崇されている。
•史料の重み
『沿革図書 拾八』は、消え去った武士の町「甲賀町」の記憶を現代に繋ぐ、最も精密な座標軸といえる。
画像:御府内場末往還其外沿革図書
■ 遠藤宗家
第五十代・桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主・遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主・遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主・遠藤寛(辯護士)に至る。