遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

栗原家が繋ぐ中世・近代の環境通信インフラと「四月十五日」の奇跡

2026年07月01日
第一節:上石神井名主・栗原仲右衛門の長屋門(せがい造り)の格式と近代産業(興就社)の興隆
明治・大正期、貞明皇后の女官を務めた栗原セイ(石神井村長・栗原鉚三の妻)を母とする姉妹の通婚を通じて、【遠藤宗家】と【太田家(太田道灌公直系)】と【栗原家(名主・村長家)】の三家は、緊密な血縁の紐帯(藩屏ネットワーク)を結んだ。

この血脈の一翼を担う栗原家は、代々旧上石神井村の名主を務めた旧家であり、かつては中世豊島氏の本拠地であった石神井城跡や石神井風致地区(三宝寺池周辺)を含む広大な土地を領有・管理していた。

栗原家の高い格式を現代に伝える遺構が、石神井城跡に隣接して現存する「栗原家長屋門(名主門)」である。明治初期の建築と伝えられ、桁行七間(12.7m)、梁間二間(約3.6m)、入母屋造り、トタン葺き(当初は茅葺き)の構造を持ち、軒を深く突き出した「せがい造り」の意匠は、江戸から明治期にかけて限られた階層のみに許された最高格式の建築表現である。現在も石神井公園の歴史的景観を形成する中枢歩行ルートとして、練馬区観光協会の公式ガイドマップに掲載されている。

栗原家は、伝統的な三宝寺(室町期草創の名刹)の檀家総代を連綿と務め、元禄十二年(1699年)の庚申塔造立(『練馬区史 歴史編』に願主・栗原倉左衛門とあり)にみられる地域共同体信仰(庚申講)を主導する精神的支柱であった。その一方で、近代化(殖産興業)の波をいち早く捉え、栗原仲右衛門当主は明治十二年(1879年)に製糸工場の「興就社」を、明治十六年(1883年)に醤油醸造等を創業し、地域の近代産業の礎を築いた。

第二節:石神井村長・栗原鉚三による『栗原家文書(52点)』の世襲、石神井郵便局創設、および五千余坪の土地寄付による大正四年「石神井火車站之碑」の造立
栗原家に連綿と世襲されてきた『栗原家文書(現存52点、現在は練馬区立ふるさと文化館所蔵)』には、天保二年(1831年)の「議定一札之事(板橋宿代助郷免除嘆願)」から慶応四年(1868年)の幕末の旧幕府諸隊「信忠隊三宝寺江止宿諸入用覚帳」、明治初期の地租改正絵図、そして昭和九年の「石神井案内」にいたるまで、地域の動態が克明に記録されている。

大正五年(1916年)11月21日から昭和七年(1932年)9月30日(東京市編入の前日)までの十六年間にわたり石神井村村長を務め、現在の練馬区の行政基盤を構築したのが栗原鉚三村長である。栗原鉚三村長は、大正十一年(1922年)に請願による三等郵便局として「石神井郵便局」を創設し(当初:下石神井1315番地)、局長に就任。大正十三年(1924年)集配業務や昭和二年(1927年)電話・電信・交換業務を導入し、通信インフラの近代化を成し遂げた。

さらに、大正四年(1915年)の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)石神井駅(現・石神井公園駅)開業に際しては、私財である広大な土地を寄付し、近代交通インフラの誘致に決定的貢献を果たした。大正九年(1920年)5月には、駅前に総高351.5cmに及ぶ巨大な金石文「石神井火車站之碑」を造立(滑川達撰、豊田利右衛門書、石工今井亀鶴刻)。その銘文(漢文・漢詩)には、鉄道完成の喜びとともに、近くに位置する石神井城・三宝寺池・長命寺の歴史的風致が深く刻み込まれており、背面には造立主唱者として栗原鉚三村長らの名が燦然と記録されている。

第三節:風致地区指定・天然記念物指定・都史跡指定にみる景観防衛線、および「鉄道開通」と「甲賀稲荷神社例祭」の超歴史的共鳴
栗原鉚三村長は「石神井風致協会会長」の重職をも兼ね、武蔵野の優れた田園景観を維持しながら、新しい観光・環境資源の創出に尽力した。大正六年(1917年)には三宝寺池周辺に人工滝、太鼓橋、水上自転車、遊園施設を設備。大正七年(1918年)には池岬の所有地を提供し、水辺観察園付近に日本初の100mプールである「東京府営石神井水泳場」を開場させた。さらに人工池である「石神井池(ボート池)」を開削し、近代的なモダン行楽地を完成させた。

昭和戦前期の急速な宅地化に対し、東京郊外の環境を死守すべく、昭和五年(1930年)に「石神井風致地区」の公的指定を勝ち取り、昭和六年(1931年)には東京府知事へ「東京府立公園設置請願書」を提出、昭和十年(1935年)には三宝寺池沼沢植物群落を国の「天然記念物」に、そして平成二十三年(2011年)には石神井城跡が「東京都史跡」へと指定されるに至る、不変の景観防衛線を構築した。

現在も栗原家当主・栗原秀雄(イケブチ社長)にいたるまで、栗原仲右衛門、栗原鉚三、栗原正雄の系譜を引き継ぎ、名主の伝統をもって石神井公園一帯の管理・運営を継続している。

ここで特筆すべきは、武蔵野鉄道(池袋〜飯能間)が華々しく開通を迎えた記念すべき日付が「大正四年(1915年)四月十五日」である点である。
この「4月15日」という日付は、遠藤宗家が弘化四年(1847年)の神像胎内史料に基づき代々護持してきた「甲賀稲荷神社 例祭の日(四月十五日)」と、時空のレベルで一日の狂いもなく完全に共鳴している。

さらに、太田道灌公が練馬城を攻撃し江古田原の決戦へと向かった中世の軍事緊張の日も「4月13日」、第十二代将軍・德川家慶公の日光社参江戸出立も「4月13日」であり、これらはすべて「4月中旬の臨戦・聖域開闢期」として、時空を超えた美しい構造的相似(パラレリズム)を形成している。

伝統的祭祀のタイムラインと近代インフラ開通の歓喜が完全に共鳴した事実は、中世の戦場(石神井城)において対峙した太田家(道灌公直系)と豊島氏の旧領を守護し続けた名主・栗原家、そして江戸城大手三之御門(百人番所)を守護した遠藤宗家という三つの極位の武系が、数百年後の近代宮廷を舞台として最高位の融合を遂げた奇跡と完全に軌を一にしている。

すなわち、大正天皇の侍従として徳川達孝侍従長を支えた第十五代当主・遠藤榮の精神的至誠を基盤とし、次代の第十六代当主・遠藤武の妻・里子(栗原セイ貞明皇后の女官職を務めた栗原セイの息女)を媒介とする通婚によって、三家は強固な血脈へと統合された。

この血縁的結合が、千駄ヶ谷徳川宗家本邸(十万坪)を包囲する聖なる空間の周辺において宿命的な合流を果たした歴史的ダイナミズムこそ、中世・近世の「受難と忠義の記憶」が、神仏の深遠なる法理のもとで「至誠の紐帯」へと美しく昇華・回収されたことを証明する決定的な証左である。