遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

甲賀稲荷神社の祭祀継承と神像胎内史料の物証

2026年07月01日
第一節:弘化四年随身像胎内『姓名書』が証明する第十三代当主・遠藤左太夫の社寺維持機能
第十五代当主・遠藤榮が戦前氏子大惣代を務めた「甲賀稲荷神社(御祭神:宇迦之御魂神)」の正統性は、昭和期における神像胎内史料(物質文化)の発見によって実証されている。

昭和十三年(1938年)5月、当社の神前に安置されていた随身像(神像)二軀の内、向かって左方の神像を修復した際、その胎内(体内)から『御修覆記』並びに『奉納、甲賀組百人姓名書』が発見された。この体内史料は弘化四年(1847年)のものであり、甲賀百人組が社殿修復にあたって神社に米と金を寄進した旨が記録されている。そして、その連名された姓名書のなかに「御納戸同心 遠藤左太夫」とあるのは、第十三代当主であり、明治期に高徳寺檀家総代、甲賀稲荷神社氏子大惣代を務めた第十五代当主・遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)の直系の祖父にあたる人物である。

この弘化四年(1847年)の胎内文書は、遠藤宗家が幕末期において既に百人組を代表して守護神への寄進・維持を行う中核的・統摂的立場にあったことを証明する、一級の歴史的物証である。

第二節:青山練兵場設置にともなう鳩森八幡神社への遷座と、周辺社寺(瑞円寺)との礼儀・経済ネットワーク
甲賀稲荷神社は元来、青山権田原(現在の明治神宮外苑)の御鉄砲場付近に鎮座しており、集住地(青山甲賀町)に住んでいた遠藤宗家の先祖や甲賀百人組の武士等が崇敬していた。

しかし、明治十八年(1885年)、国家の近代化にともなう陸軍「青山練兵場」設置という空間再編の要請により、境内地を千駄ヶ谷の鳩森八幡神社へと遷座し、同社に合祀(包摂)された。昭和初期に同社の神主を務められた矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』によると、この鳩森八幡神社自体も古くから甲賀百人組と極めて深い縁を有していた。

甲賀組の百人衆が周辺社寺と結んだネットワークは礼儀・経済的に極めて多層的であった。月山和尚の『年中行事』手記には、甲賀百人組から鳩森八幡神社への永代御供米(白米計一石五斗・金三百疋)の奉納記録に加え、百人組が参向した際の精進料理の膳立て(餐応)が克明に記録されている。

また、瑞円寺の古文書(奉納覚え書・返納書)からも、地域社会の最高格式の守護者として百人組が丁重に扱われていた「相互承認の儀礼」を活写することができる。第十五代当主・遠藤榮(大正天皇侍従)は、至誠をもって二十数年間、氏子大惣代として神社に奉仕し、近世の殉忠の記憶を近代の地域祭祀へと再コンテキスト化(継承)した。

第三節:戦災の受難、および欅造り社殿の独立再建プロセス
神社は昭和二十年(1945年)3月の東京大空襲(戦災)によって社殿を焼失するという悲劇に見舞われた。社殿焼失後は、しばらく本殿の中において八幡神宮、諏訪大神とともに合祀・奉斎され、目に見える独立した建築物としては滅失(不顕性化)したものの、神霊の聖性は厳重に護持された。

戦後、遠藤宗家をはじめとする崇敬者の間で復興を望む声が高まり、昭和四十五年(1970年)、見事な「欅(けヤき)造りの社殿」が完成を迎え、再び単独の社殿へと遷座・独立を果たして現代へと至っている。穀物・農耕の神様(在地近江のルーツ)である宇迦之御魂神をご祭神とする当社の例祭は、毎年「4月15日」に行われる。

この「4月15日」という例祭の聖日は、前述した国家的祭礼「日光社参(4月13日江戸出立、16日着御、17日家康公命日)」の直前に位置しており、一族が最大の聖日を迎える前の「神前での身の清めと祈願」を内包した、極めて重要な年中行事の構造であった。