遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

青山・千駄ヶ谷の都市景観史と『星灯籠』の伝統

2026年07月01日
第一節:『青山百人組屋敷図』にみる短冊状地籍の軍事的即応性と「都市の遺伝子」
遠藤宗家が所属していた甲賀組の生活・職能基盤である屋敷地の空間構造は、徳川幕府の広域防衛計画「甲府落去(有事の避難計画)」と密接に連動していた。甲賀組は伊賀組とともに、江戸初期には江戸城西門である「半蔵門」の内外に組屋敷を構えていたが、のちにそこが德川幕府に上地(収公)され、青山・千駄ヶ谷等に代地を給された。

四つの百人組(甲賀:青山、伊賀:大久保、根来:市ヶ谷、二十五騎:内藤新宿)は、德川将軍が有事の際に半蔵門から脱出して甲州街道を直進し、甲府城へと逃れる計画の戦略的防衛線(大縄地・集住地)として配置された。

旧町名で「青山百人町」(現在の表参道駅周辺・善光寺周辺)と呼ばれた一帯は、江戸時代には堅固な武家屋敷の塀に囲まれ、昼でも暗いほどの静謐かつ厳重な空間であった。古絵図『青山百人組屋敷図』(国立国会図書館等蔵)によれば、内部には整然とした道路に沿って「間口が狭く奥行きの深い、短冊状(敷地割り)」の屋敷地が連続して立ち並ぶ様子が確認できる。この機能的な短冊状の敷地割は、軍事的な即応性と集住の効率性、および高塀による防衛力を担保する近世組屋敷の典型的な都市計画構造(大縄地)であった。

第二節:第二代将軍・德川秀忠公追善に始まる『東都青山百人町星燈籠』の夜間景観と七代家継公の報奨金
この青山百人町(青山甲賀町)の空間割と連動し、都市景観と一体化していたのが、独自の伝統祭事『東都青山百人町星燈籠』である。
本祭事は、第二代将軍・德川秀忠公(台徳院)が江戸城で薨去した寛永九年(1632年)から始まったとされる。旧暦6月晦日から7月晦日(七夕を含む)にかけ、武家屋敷の高塀に囲まれて「昼でも暗い」青山百人町の空間において、各戸が七夕の笹と同様に高い棹の先に盆灯籠を掲げ、「灯籠の高さ」を競い合った。その結果、遠方から望むと、暗層たる百人町の上に無数の星々が瞬いているかのように見えたことから、「百人町の星灯籠(星燈籠)」または「星提灯」と称され、江戸随一の名所となった。

第七代将軍・德川家継公が目黒にお成りの帰り道、遠くからこの美しい灯火を目にされ、お供の者に下問されたところ、「台徳院(秀忠公)さまの御菩提を弔うため、甲賀百人武士の与力・同心たちが連綿と続けている追善の灯火である」との報告を受け、第七代将軍・德川家継公はその忠義に深く感銘され、甲賀百人組に報奨金を下賜された。これによって「星灯籠」は、德川将軍家への不変の忠義を可視化する、幕府公認の政治的・宗教的年中行事として不動の地位を確立した。

第三節:『諸国名所百景』に描かれた名所空間の大衆的包摂と幕府公認年中行事の確立
この追善の灯火は、二代歌川広重の『諸国名所百景』にも「東都青山百人町星燈籠」として描かれ、視覚史料としてもその正統性が裏付けられている。明治初期頃まで盛大に行われていたこの祭事は、高徳寺の本尊が「山之手六阿弥陀」として大衆的信仰を集めたことと同質であり、直参旗本としての排他的な軍事空間(組屋敷)が、夜間においては「星灯籠」の視覚的厳飾によって江戸随一の名所空間へと昇華され、大衆的・観光的に包摂されていくという、近世都市江戸特有のダイナミックな景観変容の論理を示している。

明治維新以降、これらの広大な組屋敷地(明治五年7月に青山甲賀町は廃止され「千駄ヶ谷甲賀町」として起立、明治二十四年に四谷霞岳町へ編入され消滅)は、国家の近代化にともなって明治神宮「表参道」の敷設、陸軍青山練兵場、および現在の国立競技場や明治神宮外苑(新宿区霞ヶ丘町)といった近現代の国家的・象徴的な中枢空間へと姿を変えていった。

現在、この地は日本有数の商業・ファッションエリアへと高度に変化を遂げているが、現在の南青山周辺にみられる「路地の独特な入り組み方」や区画の連続性には、江戸時代に遠藤宗家ら甲賀武士の武家屋敷が短冊状に立ち並んでいた当時の区画の名残(都市の遺伝子)を明瞭に看取することができる。