遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

家憲の精神理法と高徳寺にみる浄土教義の空間化

2026年07月01日
第一節:家憲「皇室尊崇・神仏信仰」
遠藤宗家に代々伝承されてきた家憲において、最も重要とされる第一条には、「皇室を尊崇し、神仏を信仰すること」の文言が明記されている。
この一文は、慶長五年(1600年)の伏見城籠城戦において德川家への絶対的忠誠を誓い、壮絶なる討死を遂げた始祖・遠藤左太夫の殉忠精神を現代語に翻訳・コード化したものである。遠藤宗家における神仏信仰は、単なる現世利益の祈願ではなく、国家への奉仕、質素倹約、文武両道の修練と並び、一族が德川将軍家直参たる藩屏としての誇りと、成員間の連帯性を永続的に担保するための最上位の道徳的・精神的理法として位置づけられてきた。

第二節:高徳寺墓所における教義石碑【一念彌陀佛 即滅無量罪】の宗教学的解読
遠藤宗家の仏教的信仰の核であり、一族の共同体信仰の帰宿空間となったのが、浄土宗総本山・京都知恩院末の「寂照山唯心院 高徳寺(山号及別号:寂光山唯心院、東京都港区北青山)」である。同寺の遠藤宗家墓所にある教義石碑には、第十五代当主・遠藤榮が、第十四代当主・遠藤市次郎の追善供養のために深い信仰心のもとで建立した、以下の金石文(経言)が厳然と彫刻されている。

この石碑に刻まれた教理は、始祖・遠藤左太夫が伏見城名古屋丸を守備し、石田三成らの攻撃から城を死守すべく壮絶な集団討死を遂げた際、高徳寺所蔵の『過去帳第一巻』(慶長五子年八月朔日の条)に与えられた至高の院号【大誉忠節禅完門】の精神と深く通底している。すなわち、武士として戦場に散った死者の魂と、その遺族の宿世の罪業を、阿弥陀如来の絶対的他力(慈悲)によって完全に包摂・止揚(しよう)する、極めて純度の高い浄土教義の表象である。

【 遠藤宗家墓所 五輪塔 】
遠藤宗家の墓所にある教義石碑には【一念彌陀佛 即滅無量罪・現受無比樂 後生清浄土】の彫刻がほどこされている。第十五代当主 遠藤榮が、第十四代当主 遠藤市次郎(昭和七年四月十二日没)の三回忌(阿弥陀)として、墓所を昭和九年(1934年)7月吉辰に建立したことに由来する。

「一念彌陀佛 即滅無量罪・現受無比樂 後生清浄土」は「一たび阿弥陀仏を念ずれば、無量の罪はすぐに滅び、現世では比類なき楽しみを受け、来世は必ず清らかな浄土に往生する」という意味の句で、南無阿弥陀仏の念仏信仰(浄土信仰)の教えを表し、鎌倉時代後期の板碑(ばんぴ)にも刻まれるなど、阿弥陀仏への信仰がもたらす救いを端的に説いたものである。

・一念彌陀佛 (いちねんみだぶつ) 
一度でも阿弥陀仏(南無阿弥陀仏)を心に念じること。
・即滅無量罪 (そくめつむりょうざい) 
その瞬間に、数えきれないほどの過去の罪業(つみ)が消滅する。
・現受無比樂 (げんじゅむぴらく)  
現世において、他のものと比べ物にならないほどの幸せ(楽しみ)を
受ける。
・後生清浄土 (ごしょうしょうじょうど)
そして、来世(死後)には清らかな極楽浄土に生まれ変わることができる。

この句は、浄土宗や浄土真宗などで信仰される阿弥陀仏の「本願の功徳(くどく)を説いており、南無阿弥陀仏と唱えること(念仏)が、罪の消滅、現世での安楽、そして来世での往生(極楽浄土へ生まれること)という救済に直結することを力強く示している。「南無阿弥陀仏」の語源も「私は阿弥陀仏を尊びます」という意味であり、この信仰の核心を表している。

五輪塔は、平安時代中期から鎌倉時代にかけて普及した日本独特の供養塔・墓石であり、特に武士階級の間で深く信仰・建立された。武士が五輪塔を建立した理由は、下記の通りである。

一.極楽浄土への願い
武士は戦による殺生を避けられない宿命にあった。五輪塔を建てることで、その罪を浄め、死後に極楽浄土へ成仏できるという強い信仰(浄土信仰)があった。
ニ.供養の象徴
遺骨を納める「墓」に加え、亡くなった人の魂を慰める「供養塔」とした。戦場から遺体が戻らない場合でも、供養のために建立された。
三.武士としての権威
鎌倉時代、五輪塔を建てることは財力や地位の象徴でもあった。現在も高野山などには、織田信長や武田信玄といった名だたる武将の巨大な五輪塔が並んでいる。

【 五輪塔に刻まれている文字の意味 】
≪ 地 ≫
五輪塔の一番下に位置する土輪に刻まれている梵字「地」は、アと読む。土輪は全ての角が直角な四角形。地には、大地、個体、安定という意味がある。
≪ 水 ≫
五輪塔の下から二番目に位置する水輪は丸い形をし、刻まれている梵字「水」は、ヴァと読む。水輪は水を表し、液体などの変化する形がないものを意味する。
≪ 火 ≫
五輪塔の真ん中に位置する三角形の石火輪に刻まれている文字「火」は、ラと読む。体温や熱、エネルギーや人の情熱、欲求を意味している。
≪ 風 ≫
五輪塔の上から二番目に位置している風輪は、半月の形をしていて梵字「風」は、カと読む。風には、気圧や空気、成長や自由、呼吸という意味がある。
≪ 空 ≫
五輪塔の一番上に位置している空輪は、宝珠の形をしている。梵字「空」は、キャと読む。空は、虚空やスペースが大きく広がる空間を意味している。また災難を取り除き、水を浄めるという意味もある。

【 宇宙を構成する六大要素 】
真言宗の開祖である空海は、宇宙は六つの要素から構成されていると考えた。五輪塔に対応している五つの要素「地、水、火、風、空」に加えて、知識の「識」を加えた六つの要素によって、宇宙や人が形成されると考えた。死者の魂に知識が入ることで、新たな生を受けて転生できるようにとの願いが込められている。

第三節:幕府寺社奉行記録(嘉永二年)にみる原宿村給地の寺領包摂と経済的制度化
高徳寺は、天正七年(1579年)の德川家康公の江戸入府(遷幸)に際し、德川家康公の直接の命を受けた遠藤宗家ら甲賀組が「開基家」となり、在地(近江国甲賀郡)において信仰していた浄土宗寺院を江戸(赤坂青山北町)へと移転・建立させたことに始まる。元和九年(1623年)に晃誉上人居的和尚が開山となって諸堂が整備された。江戸時代を通じて、同寺には淳澄、源流、隆察など、德川将軍家菩提寺である江戸増上寺学寮出身の極めて優秀な高僧が晋山(住職就任)しており、本堂の瓦葺屋棟に金色の德川将軍家「三つ葉葵章」を附することが許された、德川幕府一線級の格式を誇る特権的寺院であった。

本尊の阿弥陀如来(行基菩薩作)および左右の観音・勢至菩薩を配し、「山之手六阿弥陀の第三番札所」として大衆的信仰を集めた境内の満願稲荷社、寿延観音堂、子安観音堂、および鐘楼(梵鐘銘:宝永元年・1704年)などは、すべて德川幕府の全面的な経済的・行政的援助(公的厳飾)によって造営された。

この仏教的聖域の永続性を支えた経済的基盤が、地籍の法制化である。嘉永二年(1849年)11月の『徳川幕府寺社奉行』の録上記録には、甲賀組が幕府から宛行(あてがい)を拝領していた「原宿村」の給地(年貢地)の一部が、高徳寺の「寺領(年貢地)」へと公的に組み込まれていた事実が明記されている。これにより、武家集団の経済的特権が、菩提寺の祭祀財源へと制度的・自動的に還流する構造が確立した。近代以降も、大正天皇の東宮侍従を務めた第五代当主・遠藤榮らが同寺の檀家総代を歴任し、四百年以上にわたり祭祀の紐帯を破綻なく護持し得た背景には、この強固な地籍の制度化が存在したのである。

【 東京名所図会による寂照山高徳寺の縁起 】 
高徳寺は。青山北町四丁目四十六番地に在り。即ち御熊野横丁の北畔にして。道路より少しく奥の方に黒門あり。本堂は瓦葺にて。其の屋棟に金色の葵章を附したり。本尊は阿弥陀如来。行基菩薩の作。左右は観音勢至。山の手六あみた第三番の札所なり。
嘉永二年十一月幕府寺社奉行に録上せしものに。左の如く見ゆ。
浄土宗京都知恩院末寂光山唯心院高徳寺。
一拙寺境内御留守居支配明屋敷番伊賀者給地古跡添地七十五坪。古跡年貢地二千八百五十坪有之。添地年貢地地境相分り兼。一圓武州豊島郡原宿村に御座候。寺號其外相替候儀無御座候。
一起立。天正七年也月日相知不申候。
是にて創建の大略を知るべし。開山は晃譽無的上人にして。開基は甲賀組の望月助之進外七名なりといふ。今の本堂は間口七間奥行九間。享保十四年三月第五世忍譽存道上人の再建に係る現時の住職は矢田圓随師なり。
當寺には。過去帳十四冊を蔵し。慶長五子年八月朔日。上野重蔵を首とし。本年に至るまでの埋葬者を詳記しあり。過去帳のかく完全に保存しあるは。殊勝のことといふべし。
西洋人執筆の墓碑。東京南新堀萬屋庄兵衛次男掌次郎(明治三年三月二日)の碑にして。碑面の上部には欧文。下部には片假名を以て其の履歴を記し。正面に題して西譽洋學信士とあり。文末には横濱在留亜國四番加比丹レーム誌と刻したるは。いとめづらし。
日行大我の碑。左右石柱に猿を刻し。碑面に蓮峰行仙信士天明八甲子年十二月廿三日とありて。明らかに富士行者たることを表明せり。
井出龍僊の碑。(碑文省略)
河内山宗春の墓。本堂の西の方五間許の所に在り。高さ一尺五寸程の小墓なり。其の傍に「河内山宗春の墓」としるし標榜あり。僅かに探準を寫せり。表面には
求め道浄欣信士
光岳院法楯童子
とありて。
左の横に河内山宗春と刻しあり。又右の横には
求文政六癸未年六月二十二日河内山氏
光安永十辛丑年四月十六日
と鐫せり。當寺の過去帳を検するに。浄欣信士七月廿二日牢死河内山宗春と記し。浄欣の上に求道の二字を加筆あり。聞く宗春は牢死たる者なれば。夜中竊に葬り。寺僧も憚りて僅かに欣浄信士と諡號せしが。後ち建墓の際求道の二字を追加せしものならむと。法楯童子は宗春の子のよし。但安永十年即ち天明元年にて文政六年より四十三年前なり。