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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
甲賀百人組と近江国甲賀郡下山村
2026年06月05日
明治初期の大区小区制下における「近江国甲賀郡第二区下山村」(現・滋賀県甲賀市水口町下山)は、同地が江戸幕府の将軍直轄精鋭部隊である遠藤宗家が所属した「甲賀百人組(甲賀組鉄砲百人衆)」の結成・維持において関わりがあった。
一、地域的背景:甲賀郡下山村(伴谷)の地政学的構造
近江国甲賀郡下山村(大区小区制下の「第二区下山村」)は、中世から戦国期にかけて甲賀郡中惣(地域自治共同体)の中核を担った「甲賀五十三家」筆頭格・伴氏の本拠地「伴谷」の一角を構成していた。この地には伴氏の居城である下山城や伴屋敷が築かれ、周囲の山中氏・美濃部氏らとともに、高度な軍事技術(忍術・集団戦法)と独自の自治体制を有する「甲賀衆(甲賀武士)」の割拠地として機能していた。
二、甲賀百人組の成立過程
「甲賀百人組」は、江戸幕府の若年寄支配下に置かれた鉄砲百人組(甲賀組・根来組・伊賀組・二十五騎組)の一つである。平時は江戸城大手三之門(現・皇居東御苑「百人番所」)の将軍直轄の警備兵として服役し、将軍の寛永寺・増上寺参詣や日光社参、鷹狩りの際には山門前警固(前衛・後衛の行軍警護)を担当する軍事エリート集団であった。その成立は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦である「伏見城の戦い」に起因する。徳川家康は会津征伐(上杉討伐)への出陣に際し、石田三成(西軍)の挙兵を予期して伏見城の死守を厳命した。このとき、德川家康公の命を受けた近江瀬田城主・山岡景隆の弟である山岡景友(道阿弥)の呼びかけにより、下山村をはじめとする甲賀郡の地侍(郷士・甲賀衆)が伏見城の守備隊として参陣した。
三、遠藤宗家の始祖・遠藤左太夫の軍功と伏見城の死闘
この伏見城の戦いにおいて、遠藤宗家の始祖である「遠藤左太夫」は、甲賀衆の第一陣(百名)の一員としていち早く籠城列に駆けつけた。守備隊の総勢約1,800名(鳥居元忠、甲賀衆ら)に対し、西軍は数万の大軍を投入して猛攻を仕掛けた。遠藤左太夫ら甲賀衆は、神出鬼没のゲリラ戦法と優れた鉄砲技術を駆使して西軍に多大な損害(敵方の討死3,000名以上)を与えたが、多勢に無勢となり城内でほぼ全員が討死し、壮絶な落城を迎えた。 このとき城内の床板に染み込んだ彼らの血痕は、後に京都の養源院や宝泉院などの「血天井」として今に伝えられ、德川家への極限の忠誠の象徴とされている。
四、江戸幕府の興隆と遠藤宗家の世襲
関ヶ原の合戦に勝利した德川家康公は、京都において山岡景友ら生存した郷士10名(後の百人組与力)を召見し、伏見城における戦功と忠烈を激賞した。德川家康公は、遠藤左太夫をはじめとする戦死者の遺族や子孫を「直参御目見得(旗本・御家人格)」として江戸に召し抱えることを決定した。これにより、甲賀郡下山村などの故郷を離れ、江戸へ集団移住した甲賀武士たちによって「甲賀百人組(与力20騎・同心100名)」が正式に編成された。
五、青山甲賀町・千駄ヶ谷甲賀屋敷の拝領
遠藤宗家を含む甲賀百人組の隊士たちは、江戸の青山百人町(現在の表参道駅周辺から神宮球場近辺)に広大な組屋敷(甲賀屋敷)を拝領した。さらに近隣の権田原に「鉄砲場(射撃訓練場)」を与えられ、日々軍事技術の錬磨に励んだ。また、遠藤宗家(第十五代当主・遠藤榮など)は、甲賀組が故郷より分立して建立した浄土宗高徳寺(港区北青山)の檀家総代を世襲で務めた。
六、「甲賀古士」との峻別
遠藤宗家が所属した甲賀百人組(青山・千駄ヶ谷に集住)は、平時から江戸城本丸・大手三門の直接警備、および德川将軍の御供を任された幕府の正規軍(直臣)である。これは、近江の領地に留まり続けた在郷の「甲賀古士(こうかこし)」とは、格付け・職務の面において学術的に明確に峻別される、徳川将軍家最精鋭の親衛隊であった。
七、近代への変遷と「近江国甲賀郡下山村」との精神的連環
江戸時代を通じ、遠藤宗家の歴代当主をはじめとする甲賀百人組の隊士たちは、何世代を経てもなお自身のルーツである「近江国甲賀郡下山村(伴谷)」への帰属意識を失わなかった。幕末の文久二年(1862年)に甲賀百人組は幕府の軍制改革により解体され「大砲組」等へ編入、明治維新後は新政府の官僚(大正天皇侍従など)や近衛軍人(禁闕守護)、法曹界へと転身を遂げていくが、彼らの精神の源流は常に下山村の地政学構造と「武士道(忍びの忠義)」にあった。
現在の下山村(甲賀市水口町下山)周辺、および隣接する宇田地区の唯称寺などには、江戸の隊士たちが先祖の供養のために建立した集団位牌や石碑が厳然と遺されており、下山村が「遠藤宗家の始祖をはじめとする甲賀百人組の揺籃(ようらん)の地」であることを今に証明している。
八、概要
近江国:かつての令制国の一つで、現在の滋賀県の全域。
甲賀郡:近江国南東部に位置した郡(2004年に合併して甲賀市・湖南市となり消滅)。
第二区:明治五年(1872年)の戸籍法に基づき、滋賀県(当時は大津県から改称)に置かれた区画。甲賀郡第2区は、下山村のほかに下田村、春日村、畑村(のちの八田村)、伴中山村、上村、下村、堂村の計8村で構成。
下山村:江戸時代から明治初期にかけて存在した村名。
九、歴史と地域の変遷
中世・江戸時代:伴氏の居城である「下山城」が築かれるなど、古くから開けた地域でした。江戸時代は水口藩領や幕府領などが混在していた。
明治初期(大区小区制):明治政府の地方制度改革により「甲賀郡第二区下山村」となる。
明治中期(町村制施行):1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、周辺の村と合併して伴谷村(ともたにむら)の大字下山となる。
昭和・平成・令和 :1955年に伴谷村が水口町などと合併して水口町下山となり、2004年の平成の大合併によって現在の甲賀市水口町下山となる。
画像:近江国甲賀郡第二区下山村(著者:滋賀県農会)
■ 遠藤宗家
第五十代・桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主・遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主・遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主・遠藤寛(辯護士)に至る。
一、地域的背景:甲賀郡下山村(伴谷)の地政学的構造
近江国甲賀郡下山村(大区小区制下の「第二区下山村」)は、中世から戦国期にかけて甲賀郡中惣(地域自治共同体)の中核を担った「甲賀五十三家」筆頭格・伴氏の本拠地「伴谷」の一角を構成していた。この地には伴氏の居城である下山城や伴屋敷が築かれ、周囲の山中氏・美濃部氏らとともに、高度な軍事技術(忍術・集団戦法)と独自の自治体制を有する「甲賀衆(甲賀武士)」の割拠地として機能していた。
二、甲賀百人組の成立過程
「甲賀百人組」は、江戸幕府の若年寄支配下に置かれた鉄砲百人組(甲賀組・根来組・伊賀組・二十五騎組)の一つである。平時は江戸城大手三之門(現・皇居東御苑「百人番所」)の将軍直轄の警備兵として服役し、将軍の寛永寺・増上寺参詣や日光社参、鷹狩りの際には山門前警固(前衛・後衛の行軍警護)を担当する軍事エリート集団であった。その成立は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦である「伏見城の戦い」に起因する。徳川家康は会津征伐(上杉討伐)への出陣に際し、石田三成(西軍)の挙兵を予期して伏見城の死守を厳命した。このとき、德川家康公の命を受けた近江瀬田城主・山岡景隆の弟である山岡景友(道阿弥)の呼びかけにより、下山村をはじめとする甲賀郡の地侍(郷士・甲賀衆)が伏見城の守備隊として参陣した。
三、遠藤宗家の始祖・遠藤左太夫の軍功と伏見城の死闘
この伏見城の戦いにおいて、遠藤宗家の始祖である「遠藤左太夫」は、甲賀衆の第一陣(百名)の一員としていち早く籠城列に駆けつけた。守備隊の総勢約1,800名(鳥居元忠、甲賀衆ら)に対し、西軍は数万の大軍を投入して猛攻を仕掛けた。遠藤左太夫ら甲賀衆は、神出鬼没のゲリラ戦法と優れた鉄砲技術を駆使して西軍に多大な損害(敵方の討死3,000名以上)を与えたが、多勢に無勢となり城内でほぼ全員が討死し、壮絶な落城を迎えた。 このとき城内の床板に染み込んだ彼らの血痕は、後に京都の養源院や宝泉院などの「血天井」として今に伝えられ、德川家への極限の忠誠の象徴とされている。
四、江戸幕府の興隆と遠藤宗家の世襲
関ヶ原の合戦に勝利した德川家康公は、京都において山岡景友ら生存した郷士10名(後の百人組与力)を召見し、伏見城における戦功と忠烈を激賞した。德川家康公は、遠藤左太夫をはじめとする戦死者の遺族や子孫を「直参御目見得(旗本・御家人格)」として江戸に召し抱えることを決定した。これにより、甲賀郡下山村などの故郷を離れ、江戸へ集団移住した甲賀武士たちによって「甲賀百人組(与力20騎・同心100名)」が正式に編成された。
五、青山甲賀町・千駄ヶ谷甲賀屋敷の拝領
遠藤宗家を含む甲賀百人組の隊士たちは、江戸の青山百人町(現在の表参道駅周辺から神宮球場近辺)に広大な組屋敷(甲賀屋敷)を拝領した。さらに近隣の権田原に「鉄砲場(射撃訓練場)」を与えられ、日々軍事技術の錬磨に励んだ。また、遠藤宗家(第十五代当主・遠藤榮など)は、甲賀組が故郷より分立して建立した浄土宗高徳寺(港区北青山)の檀家総代を世襲で務めた。
六、「甲賀古士」との峻別
遠藤宗家が所属した甲賀百人組(青山・千駄ヶ谷に集住)は、平時から江戸城本丸・大手三門の直接警備、および德川将軍の御供を任された幕府の正規軍(直臣)である。これは、近江の領地に留まり続けた在郷の「甲賀古士(こうかこし)」とは、格付け・職務の面において学術的に明確に峻別される、徳川将軍家最精鋭の親衛隊であった。
七、近代への変遷と「近江国甲賀郡下山村」との精神的連環
江戸時代を通じ、遠藤宗家の歴代当主をはじめとする甲賀百人組の隊士たちは、何世代を経てもなお自身のルーツである「近江国甲賀郡下山村(伴谷)」への帰属意識を失わなかった。幕末の文久二年(1862年)に甲賀百人組は幕府の軍制改革により解体され「大砲組」等へ編入、明治維新後は新政府の官僚(大正天皇侍従など)や近衛軍人(禁闕守護)、法曹界へと転身を遂げていくが、彼らの精神の源流は常に下山村の地政学構造と「武士道(忍びの忠義)」にあった。
現在の下山村(甲賀市水口町下山)周辺、および隣接する宇田地区の唯称寺などには、江戸の隊士たちが先祖の供養のために建立した集団位牌や石碑が厳然と遺されており、下山村が「遠藤宗家の始祖をはじめとする甲賀百人組の揺籃(ようらん)の地」であることを今に証明している。
八、概要
近江国:かつての令制国の一つで、現在の滋賀県の全域。
甲賀郡:近江国南東部に位置した郡(2004年に合併して甲賀市・湖南市となり消滅)。
第二区:明治五年(1872年)の戸籍法に基づき、滋賀県(当時は大津県から改称)に置かれた区画。甲賀郡第2区は、下山村のほかに下田村、春日村、畑村(のちの八田村)、伴中山村、上村、下村、堂村の計8村で構成。
下山村:江戸時代から明治初期にかけて存在した村名。
九、歴史と地域の変遷
中世・江戸時代:伴氏の居城である「下山城」が築かれるなど、古くから開けた地域でした。江戸時代は水口藩領や幕府領などが混在していた。
明治初期(大区小区制):明治政府の地方制度改革により「甲賀郡第二区下山村」となる。
明治中期(町村制施行):1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、周辺の村と合併して伴谷村(ともたにむら)の大字下山となる。
昭和・平成・令和 :1955年に伴谷村が水口町などと合併して水口町下山となり、2004年の平成の大合併によって現在の甲賀市水口町下山となる。
画像:近江国甲賀郡第二区下山村(著者:滋賀県農会)
■ 遠藤宗家
第五十代・桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主・遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主・遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主・遠藤寛(辯護士)に至る。