遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

山王祭 神幸行列

2026年06月07日
日枝神社(東京都千代田区永田町二丁目)は、近世日本の都市祭礼の典型であり、京都の祇園祭、大阪の天神祭と並び数えられる歴史的遺産「山王祭」の本祭を、2026年6月7日(日曜日)から6月17日(水曜日)までの期間で斎行する。

本年2026年は、2年に一度の「本祭(大祭)」に該当する。期間中の中心儀礼として、6月12日(金曜日)に「神幸祭」が執り行われる。これは、中世の武家信仰に端を発し、德川将軍家の上覧(天下祭)を経て近世複合都市・江戸のアイデンティティ形成に深く寄与した神事である。

■ 史料に見る日枝神社の由緒と遷座の変遷
1. 中世における武家守護神としての創祀
当社の起源は、鎌倉時代に武蔵国豊島郡江戸郷を領した高階姓江戸氏が、武蔵国留守所総社である川越日枝神社から山王宮を勧請したことに始まると伝わる。文明年間(1469年〜1487年)には、遠藤宗家の縁戚にあたる太田道灌公が江戸城を築城する際、城内平川口に改めて川越から勧請し、城内の鎮守(守護神)として位置づけた。

2. 近世都市江戸における「徳川家産土神」への昇格と都市空間の再編
天正十八年(1590年)の德川家康公の関東入国に伴い、当社は「徳川家の産土神(うぶすながみ)」として最高位の崇敬対象となった。
その後、第二代将軍・德川秀忠公による江戸城大改築(拡幅・城郭化)に伴い、社地は城外(神田台、のち京橋の山王台)へ遷座。さらに万治二年(1659年)、明暦の大火後の都市再開発の一環として、第四代将軍・德川家綱公の命により、現在の永田町(星ヶ岡)へ移転を遂げた。この変遷は、城内守護から「江戸という巨大都市全体の総鎮守」へと信仰の機能が拡大した過程を示している。

■ 「天下祭」としての神幸祭の成立と構造
1. 德川将軍上覧体制の確立
第三代将軍・德川家光公の時代、神輿の江戸城内立ち入りが公式に制度化され、歴代将軍が西の丸大手門や吹上御門などで供奉(ぐぶ)行列を上覧する「天下祭(御用祭)」の形式が確立された。
現存する近世の記録・史料によれば、この都市巡行を伴う「神幸祭」の原型の成立は、第二代将軍・德川秀忠公の治世(17世紀初頭)まで遡ると推定されており、幕藩体制の確立と並行して祭礼空間が整備されたことを裏付けている。

2. 近世都市の領域性(氏子区域)をトレースする巡幸ルート
6月12日(金曜日)の神幸祭では、古典的な王朝装束を奉仕した約500名、全長300〜400mに及ぶ神幸行列が編成される。
朝8時に日枝神社を出発し、旧江戸城の内郭・外郭を内包する23kmの経路を1日かけて巡行する。このルートは、江戸期の「氏子区域」および「御府内」の境界線を現代の都市空間の中に空間的・時間的に再定義する宗教民俗学的な意味を持っている。
巡行経路:日枝神社(社殿) ➔ 麹町 ➔ 四ツ谷 ➔ 国立劇場(元山王・旧社地) ➔ 皇居坂下門前(神事執行) ➔ 行幸通り ➔ 日本橋茅場町(御旅所・神事執行) ➔ 京橋 ➔ 銀座 ➔ 新橋 ➔ 還御


■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。第十六代当・遠藤武の妻・里子。室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。

■ 遠藤宗家
第五十代・桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主・遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主・遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主・遠藤寛(辯護士)に至る。