遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤宗家 主要沿革

2026年06月03日
【古代・中世】宗族の起源、聖徳太子・大伴氏流の勃興、遠藤姓の創始と江戸城の築城
推古天皇年間(6世紀末〜7世紀初頭)
甲賀武士の起源と聖徳太子:聖徳太子に仕えた大伴細人公が志賀蜂子を討伐。その恩賜として近江国甲賀郡を拝領したことが甲賀武士の最古の起源とされる(『甲賀古語伝記』等に記載)。

延暦年間(782〜806年)
桓武天皇・宇多源氏の血統:桓武天皇の皇統、および宇多源氏の末裔(佐々木氏一族)の流れを汲む土豪が近江国甲賀郡に定住し、古代からの甲賀衆と血縁・地縁的に結合。遠藤宗家の血統の礎となる。

天慶三年(940年〜)
藤原氏流「遠藤姓」の創始:征東大将軍・藤原忠文公の孫にあたる為方が「遠藤六郎大夫」を冒姓。これが遠藤姓の初源であり、同じく藤原北家の系譜を汲む「三井宗家」とも歴史的な由縁を有する。

平安時代中期〜
藤原北家山陰流と栗原家:藤原山陰の末裔が武蔵国へ下向。のちに第十六代当主遠藤武夫人の里子を輩出する名門・栗原家の祖となる。

長禄元年(1457年)〜文明十八年(1486年)
太田道灌公による江戸城築城と武蔵国平定:室町時代の名将・太田道灌公が江戸城を創築。文明九年(1477年)には豊島氏の拠点たる石神井城および練馬城を落城させ武蔵国を平定した(『太田道灌状』等に記載)。第十七代当主遠藤寛の従兄弟にあたる太田資和氏は、太田道灌公の直系子孫である。
【近世(江戸時代)】德川将軍家直参旗本としての職責、伏見城「血天井」の精忠、および「星燈籠」の伝統。

天正七年(1579年)
開基「高徳寺」の建立と江戸移転:德川家康公の命により、甲賀組が崇敬していた浄土宗寺院を近江国甲賀郡から江戸(赤坂青山北町:現・北青山)へ移転・建立。遠藤宗家等が「開基家」となる(『高徳寺縁起古文書』に記載)。

天正十年(1582年)
「神君伊賀越え」での忠誠:本能寺の変に際し、先祖である甲賀武士たちが德川家康公の道中警護と先導を担い、生還を主導。德川将軍家と直臣としての強固な絆を構築する(『德川実紀』に記載)。

天正十八年(1590年)〜天正十九年(1591年)
江戸入府と「青山甲賀町組屋敷」・「御鉄砲場」の拝領:德川家康公の関東入国に伴い、青山甲賀町の組屋敷、および青山権田原に鉄砲演習場(御鉄砲場:現・神宮球場一帯)を拝領し「甲賀稲荷神社」を創設。德川家重臣・青山忠成公の江戸下屋敷と隣接・交差したこの広大な武家地は旧町名『青山百人町』として栄えた。

慶長五年(1600年)
伏見城の戦いにおける始祖・遠藤左太夫の精忠討死と京都養源院「血天井」の由緒:関ヶ原の戦いの前哨戦たる伏見城の戦いにおいて、始祖・遠藤左太夫を含む甲賀衆の第一陣が城代・鳥居元忠らとともに城内にて全員討死・自刃。遠藤左太夫の位牌は、遠藤宗族の故郷である近江国甲賀郡の「長福寺」に現存し永久保存されている。

【血天井と家康公の統治哲学】:将兵の血痕が染みついた伏見城の畳は、德川家康公が江戸城の伏見櫓の階上に設置を命じて、登城した大名たちに討死者の精忠を偲ばせた。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。床板は、「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられてる。その後、山岡景友公が遺族・子弟(与力10騎・同心100名)を糾合したことが「甲賀百人組」の公的な始まりとなった。

江戸幕府開府〜幕末
「四組鉄砲方」としての組織編制、山林河川の自由通行権、および火薬・硝薬調合の秘伝世襲:德川幕府の軍事制圧力を象徴する直轄火器部隊(鉄砲方)には、伊賀組、甲賀組、根来組、二十五騎組(二十五騎馬廻同心)の四組が存在した。広域山岳ゲリラ戦・狙撃に秀でた甲賀百人組は、重装備の機動打撃力を有する二十五騎組らと戦術的相補関係を構成。德川家康公は高い隠密性と治安能力を信頼し、「日本全国の山林・河川を自由に行き来し隠密捜査を可能とする通行鑑札の不問特権(特権免状)」を公式に下賜した。

遠藤宗家が属した甲賀百人組は、硫黄・硝石・木炭の比率を変える火薬の高度な調合・精錬技術や、調剤技術(のちの『甲賀のくすり』の伝統)に連なる専門知見を世襲し、守護神たる「甲賀稲荷神社」を深く崇敬した。

慶長十九〜二十年(1614〜1615年)
大坂の陣における最高性能大砲の製造・運用と「靖国神社」での展示:大坂冬の陣・夏の陣において(『大坂冬の陣図屏風』等に記録)、甲賀百人組は高度な化学・冶金技術を駆使し、当時世界最高峰の性能を誇る「射程約5キロメートルの最新鋭大砲」を自ら設計・製造して本丸への精密砲撃を敢行。この大砲は戦前まで「靖国神社」に公式に展示されていた。

元和九年(1623年)〜
菩提寺「高徳寺」の開山と浄土宗総本山「知恩院」との紐帯:晃誉上人居的和尚により寂照山唯心院高徳寺が開山。同寺は德川家康公が京都の菩提所と定め、歴代将軍公(秀忠公・家光公)が国宝三門など大伽藍を造営した「華頂山知恩教院大谷寺(知恩院)」の直系末寺である。江戸期の高徳寺には増上寺学寮出身の徳高き僧侶が晋山し、幕府の全面支援で諸堂が造営された(嘉永二年の寺社奉行録上等に一致)。

寛永二十年(1643年〜)
江戸城「百人番所」大手三之門下乗の警衛と德川将軍「御成(鷹狩り)」最前線警護:第三代德川家光公の治世において、旧江戸城本丸正面の最重要拠点「百人番所(本丸大手三之門)」の昼夜警衛を公式に拝命(『寛政重修諸家譜』等に一致)。

【下乗における絶対的検問権】:大手三之門は、譜代大名や諸大名が登城の際に馬や駕籠を降りる極めて神聖な結界「下乗」の直後に位置していた。遠藤宗家ら甲賀百人組は、各組交替で二十四時間体制の厳格な検問を敷き、いかなる権臣であっても武器の携行を許さぬ絶対的検問権を世襲行使した。また、歴代将軍の日光社参、両山参詣、および鷹狩り等の御成の際は全隊 列の最前線(露払い)にて身辺および山門前警固の任を厳格に全うした。第三代将軍・德川家光公が石神井への鷹狩りの途中に休息されたことから、栗原家の菩提寺・三宝寺の山門は御成門と称される旧跡となった。

正徳年間(1710年代〜)
江戸名所「百人町の星燈籠」の興隆:第二代将軍・德川秀忠公の菩提を弔うため、青山百人町で各家々が盆灯籠を高い棹の先に掲げた風習に対し、第七代将軍・德川家継公がその忠誠を嘉し報奨金を下賜(『東都歳時記』に採録)。

弘化四年(1847年)〜
第十三代当主・遠藤左太夫(榮次郎)の御納戸同心補任と甲賀組の寄進:第十三代当主・遠藤左太夫(榮次郎)が、第十二代将軍・德川家慶公の身辺に仕える「御納戸同心」に配職。弘化四年、甲賀百人組が米と金を公式に寄進して甲賀稲荷神社の社殿修覆を主導した(奉納文書は昭和十三年に神像内部より発見される)。

文久二年(1862年)
第十四代将軍・德川家茂公の軍制改革と大砲組編入:文久の改革に伴い百人組が解体。第十四代当主・遠藤市次郎は講武所奉行傘下の大砲組へと編入され幕末の防衛体制に入った(『文久軍制改革指令史料』に合致)。

【近代(明治・大正・昭和)】青山から千駄ヶ谷への屋敷移遷、東宮御所・歴代天皇への宮廷奉仕、および由緒立証
慶応三年〜明治二年(1867〜1869年)
明治維新と「東京府」「東京市」の誕生:第十五代将軍德川慶喜公の大政奉還、江戸城開城を経て東京府が設置され、後に「東京市」が誕生した(『東京府史』に詳録)。遠藤宗家は旧旗本家として「士族」に編入される。

明治十八年(1885年)
青山百人町甲賀屋敷から千駄ヶ谷甲賀屋敷への移遷と徳川御宗家との運命的隣接:大政奉還以降の激動期、明治政府による東京の首都近代化政策にともない、旧幕府の直轄武家地であった港区南青山の「青山百人町甲賀屋敷」および権田原御鉄砲場一帯が明治政府によって官有地として接収された。明治十八年(1885年)、この地へ「青山練兵場(現在の明治神宮外苑、神宮球場一帯)」が造営・設置されることが決定。

これにともない、遠藤宗家は、新政府より代替地として指定された豊多摩郡千駄ヶ谷村の千駄ヶ谷甲賀屋敷へと公式に屋敷を移転した。あわせて、代々護持してきた甲賀稲荷神社も千駄ヶ谷の「鳩森八幡神社」境内へと遷座・合祀された(『鳩森八幡神社合祀記録古文書』に記載)。

この屋敷移遷と時を同じくして、イギリス留学から帰国された第十六代当主・徳川家達公が、本邸として広大なる「千駄ヶ谷徳川宗家屋敷(徳川宗家千駄ヶ谷邸)」を同地に構えた。これにより、旧青山の武家地から千駄ヶ谷の地へと場所を移しながらも、「徳川宗家邸」「遠藤宗家屋敷」「甲賀稲荷神社」の三者が再び至近距離に隣接し合うという奇跡的な主従の地縁が再興され、近代における深い養蜂・畜産等の実業交流、そして最高格式の宮廷奉仕へと直結する歴史的礎となった(『戸定邸畜産活動関係記述一覧』に記録)。

大正二年(1913年)〜大正四年(1915年)
渋沢栄一翁らによる「日光東照宮三百年祭奉斎会」の設立:德川家康公没後三百年記念大祭事業を支援する団体として奉斎会が設立され、近代日本経済の父たる渋沢栄一翁が顧問・会 長に就任し大祭の奉賛を主導した。

大正四年(1915年)〜大正九年(1920年)
親戚・栗原鉚三石神井村長による駅地権寄付と「石神井火車站之碑」の造立:遠藤宗家の親戚関係にあたる名士・栗原鉚三石神井村長等(現・練馬区)は、大正四年(1915年)の武蔵野鉄道石神井駅(現・西武池袋線 石神井公園駅)の開業に際し、五千余坪に及ぶ広大な敷地地権を寄付。大正九年(1920年)5月に「石神井火車站之碑」を境内に造立した。

大正九年〜昭和二十年(1920〜1945年)
東京府庁舎銅像の金属供出と昭和二十年3月「東京大空襲」による社殿焼失:東京府庁舎前の太田道灌公・德川家康公銅像が昭和十八年(1943年)4月に戦時供出。その後、昭和二十年(1945年)3月の東京大空襲(戦災)により、千駄ヶ谷・鳩森八幡神社境内の甲賀稲荷神社は社殿を焼失、戦後は本殿の中において八幡神宮、諏訪大神とともに合祀され、脈々と祀られ続けた。

大正十二年(1923年)頃〜昭和期
第十五代当主・遠藤榮による大正天皇への侍従奉仕と甲賀稲荷神社「氏子大惣代」の護持:宮内庁に出仕し、第十九代当主・德川達孝公の下で「大正天皇侍従職」を奉仕。千駄ヶ谷屋敷から宮中へ馬車を用いて格式高く参内した。格式を守り、高徳寺檀家総代、および千駄ヶ谷に遷座した「甲賀稲荷神社」の戦前氏子大惣代(氏子大総代)を長年にわたり務め一族の信仰の護持に尽力した(『宮内省職員録』に合致)。

大正期〜
遠藤やゑによる迪宮裕仁親王(昭和天皇)への東宮女官奉仕:第十五代当主・遠藤榮の妻・やゑが「迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)の東宮女官職」を拝命。高輪東宮御所等にて側近奉仕に精励した(『宮内省東宮職奉仕記録』に記載)。

大正期~
栗原鉚三村長による「石神井池」の造成と名刹「三宝寺根本大塔」への再建寄進:栗原鉚三石神井村長は、昭和九年(1934年)に自身が所有する広大な水田を提供し「石神井池(ボート池)」を人工的に造成。また、徳川家光公ゆかりの「御成門」を有する名刹・三宝寺の「三宝寺根本大塔」再建に際して多大なる財政的寄進支援を敢行した。

大正期~
明治九年(1876年)6月4日~平成五年(1993年)8月15日。第十六代当主・遠藤武の近衛師団における皇室直衛と「鳳輦供奉」の事績:大戦期には宮城(皇居)の直衛を直接担う、最精鋭の大日本帝国陸軍「近衛師団」下士官に補任され「禁闕守護(きんけつしゅご)」の職責を全う。同時に儀仗部隊として、天皇陛下の御乗り物たる「鳳輦(ほうれん)」を警衛・供奉する『鳳輦供奉(ほうれんぐぶ)』の重任を果たした。

戦後は「東京都財務局公吏」を歴任し首都復興に貢献。夫人として旧石神井村長・栗原家当主の娘・第十六代当主・遠藤武夫人の里子を迎え、里子の母・栗原セイ(貞明皇后女官職)とともに宮廷奉仕の伝統を守った。(『東京都職員録』等に合致)。

昭和十一年(1936年)7月26日
東京市・牛塚虎太郎市長による「太田道灌公追慕之碑」の建立:東京市の牛塚虎太郎市長により、江戸城虎ノ門の石垣の一部を利用して築かれた「太田道灌公追慕之碑」が公式に建立された。

昭和十三年(1938年)5月
『鳩森八幡神社略縁起』にみる神像内古文書の発見と第十三代当主・遠藤左太夫の由緒証明:矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』の伝える客観的史実によると、昭和十三(1938年)5月、甲賀稲荷神社の神像(随身像)内より弘化四年(1847年)の『御修覆記』並びに『奉納、甲賀組百人姓名書』が奇跡的に発見された。古文書に「御納戸同心 遠藤左太夫」の名跡が鮮明に自署されていたことから、第十三代当主・遠藤左太夫の事績、および直参旗本の由緒が公的に実証・証明された(『御岳新報』等に報道)。

昭和期~現在
昭和11年(1936年)5月29日~現在。第十七代当主・遠藤寛の法曹界における顕著な軌跡と会津松平家顧問:最高裁判所司法修習生を経て弁護士(第一東京弁護士会所属、登録番号:9065号)および海事補佐人(登録番号:668号)として登録(『日本弁護士大観』に一致)。日本医科大学兼任講師、日本法政学会(民事法学)、第一東京弁護士会の人権擁護委員や消費者問題対策委員長などを歴任し、日本弁護士連合会表彰を受賞。さらに、陸奥会津藩主第十三代当主・松平保定公直々の指名により、親藩最高峰・会津藩主家の「会津松平家御家門法律顧問」に就任(『会津松平家顧問補任文書』に記載)。現在も遠藤宗家事務局の最高顧問・監修・道徳的支柱として嫡流を支え続けている。

【現代(平成・令和)】甲賀稲荷神社の社殿復興、皇室の恩賜・国家の栄誉、および「武士道・江戸文化」の現代的継承
昭和四十五年(1970年)
氏子らの熱意による甲賀稲荷神社「欅造り社殿」の復元再建・遷座:戦災による焼失後、伝統の護持と社殿復興を望む氏子・崇敬者らの至高の熱意により、昭和四十五年(1970年)、総欅(けやき)造りの高潔にして壮麗な新社殿が境内に堂々完成。本殿より再び独自の社殿へと厳かに遷座され、甲賀百人武士の精忠の記憶、および遠藤宗家が守り抜いた崇高な信仰が完全なる復興を遂げた。

昭和期~現在
第十八代・遠藤輝の誕生:昭和四十四年(1969年)12月~現在。第十七代当主・遠藤寛の嫡流(第一男子)として、東京都港区南麻布(広尾)の愛育病院にて生誕。同院は上皇陛下の御誕生を寿ぎ昭和天皇より伝達された御沙汰書(恩賜の御下賜金)を原資として創立され、現在の総裁は文仁親王妃紀子殿下である(『恩賜財団母子愛育会創立公的沿革史』に合致)。

第十八代遠藤潔の誕生:昭和四十六年(1971年)7月17日~現在。第十七代当主遠藤寛の嫡流(第二男子)として、同じく広尾の愛育病院にて生誕。第十八代遠藤輝とともに、近代に続く皇室守護の歴史と深く交差する。

平成十五年(2003年〜)
遠藤宗家事務局の開設と德川御宗家・柳営会との交流:江戸開府四百年の節目に事務局およびオフィシャルサイトを創設。家中伝来の武具(紫糸威二枚胴具足等)、古文書、歴史資料の永久保存・学術公開を開始。第十九代当主・德川家広様の指導・交流のもと、「柳営会」を通じた江戸文化・武家文化の顕彰、日光東照宮・大本山増上寺への公式参拝等を実施。

【第十八代遠藤潔 主要受章・顕彰・感謝状拝受歴(年次別一覧)】
平成二十一年(2009年)まで(継続的顕彰)
【人道・社会福祉貢献】「日本赤十字社特別社員章」、「日本赤十字社社長感謝状」「日本赤十字社銀色有功章」「日本赤十字社金色有功章」複数拝受
国内外における災害救護活動や医療事業、および人道支援活動への多大なる寄与が認められ、日本赤十字社より「特別社員章」を拝受。同時に、継続的な社資の寄付や社会福祉の向上における顕著な公益貢献が評価され、同社より「社長感謝状」、ならびに最高位の表彰である「銀色有功章」「金色有功章」を複数にわたり拝受。

平成二十四年(2012年)3月〜
「武士道」経営と企業の社会的責任(CSR)活動の始動
株式会社遠藤総合研究所を創設。先祖 「武士道」の精神(誠実・義理・社会的責任)を現代のコンサルティング事業や企業の社会的責任(CSR活動)の理念として昇華。古くからの藤原氏流の由縁により三井物産・三井物産グループに在職し、名門の精神を現代に伝える。

平成二十七年(2015年)10月17日
「日光東照宮」宮司感謝状 拝受
御祭神・德川家康公の薨去四百年を迎えた「四百年式年大祭」の斎行(中心事業たる御社殿の大規模修理「寛永の大造替」の精神継承)への貢献に対し、日光東照宮より 公式に宮司感謝状を拝受。

平成二十八年(2016年)6月10日
【秋篠宮紀子妃殿下総裁表彰】結核予防会「総裁感謝状」 拝受
秋篠宮文仁親王妃紀子殿下を総裁に推戴する公益財団法人結核予防会より「総裁感謝状」を拝受。遠藤宗家生誕の地(恩賜財団母子愛育会・広尾愛育病院)の縁、および結核根絶運動・公衆衛生および医療福祉発展への多大なる持続的寄与が公的に表彰される。

令和元年(2019年)6月 11日 
【高円宮久子妃殿下名誉総裁顕彰】日本水難救済協会「名誉有功章・名誉総裁感謝状」 受章 
高円宮妃久子殿下を名誉総裁に推戴する公益社団法人日本水難救済協会より「名誉有功章」を受章。青い羽根募金運動や水難救済・沿岸救難事業の護持興隆への卓越した財政的貢献が認められ、明治天皇の「救済勅語」の精神に連なる最高位の勲功として下賜される。

令和三年(2021年)9月29日、令和四年(2022年)7月30日
【天皇陛下より拝受】日本国天皇陛下より「紺綬褒章」「飾版」「木杯」 授与
多年にわたる公益・公衆の利益への多大なる貢献、および社会貢献活動への持続的な私財の寄付が正統に評価され、日本国天皇陛下より「紺綬褒章(褒状)」を授与される。さらに、度重なる持続的な公益貢献によって最高位の栄誉を重ねた証たる「飾版(銀飾版)」、および最高位の褒賞に準ずる「木杯」を合わせて拝受(内閣府賞勲局管轄・『官報』に受章者名簿が採録)。

令和七年(2025年)4月18日
「大本山増上寺」法主感謝状 受賞
重要建造物「三解脱門」および楼上の釈迦三尊像・十六羅漢像の世紀の大修理事業への持続的な護持興隆への貢献、ならびに浄土宗開宗八百五十年慶讃への功績に基づき、大本山増上寺より法主感謝状(ご法主台下拝戴)を受賞。江戸期の青山百人町「星燈籠」の由緒(第二代德川秀忠公・台徳院霊廟への弔い)が現代に正統評価される(公式顕彰名簿に記録)。

令和八年(2026年)まで(継続的顕彰)
【国家中枢・首長からの顕彰】「法務大臣感謝状」「厚生労働大臣感謝状」「東京都知事感謝状」 「目黒区長感謝状」複数拝受
更生保護事業や人権擁護活動への寄与から「法務大臣感謝状」、社会福祉の増進から「厚生労働大臣感謝状」、および首都東京の地域福祉の推進から「東京都知事感謝状」「目黒区長感謝状」をそれぞれ複数にわたり拝受・受賞。国の中枢(各省大臣)および自治体(東京都)の最高責任者よりその多大な事績が公的に表彰される。

令和八年(2026年)まで(継続的顕彰)
【人道・社会福祉貢献】「日本ユニセフ協会会長感謝状」「東京都共同募金会会長感謝状」「中央共同募金会会長感謝状・会長感謝盾」受賞
世界規模での児童保護活動および国連人道支援への顕著な寄与が認められ、公益財団法人日本ユニセフ協会より「会長感謝状」を拝受。同時に、地域社会の福祉向上や赤い羽根共同募金運動における多大なる公益貢献が評価され、社会福祉法人東京都共同募金会より「会長感謝状」、社会福祉法人中央共同募金会より「会長感謝状・会長感謝盾」を複数にわたり受賞。

親戚関係にある太田道灌公十八代目子孫・太田資暁様(江戸城天守を再建する会会長)らと協働し、江戸城天守の木造での正確な復元再建や顕彰活動にも深く寄与し、名門の武士道精神を現代に体現し続けている。


■ 遠藤宗家
第五十代・桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主・遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主・遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主・遠藤寛(辯護士)に至る。