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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
遠藤宗家家紋 左三つ巴紋
2026年05月26日
遠藤宗家の家紋である左三つ巴紋は、武家の棟梁・清和源氏の氏神に奉られ、のちに武家の守護神としても大いに信仰を集めた。武神である八幡神は、八幡宮・神社の広がりとともに全国的に三つ巴の普及を見せるに至った。八幡神とは、応神天皇のご神霊であり、かつては伊勢神宮に次いで皇室の祖神に位置づけられた神である。
応神天皇が「生まれながらの武神」とされたのは「鞆を携えて生まれてきた」または「出生時に腕が鞆のように盛り上がっていた」ことに由来され「弓矢=武の象徴」という、武に対する日本古来の保守的価値観が土台になっていると言える。「生まれながらの武神」と称された応神天皇と同一視されることもあり『弓矢八幡』の別称でも知られている。
応神天皇は、別名に「大鞆和気命=おおともわけのみこと」(古事記)を持ち、これはこの鞆にまつわるエピソードに由来した。また、「諡号=しごう」(崩御後のおくり名)は「誉田天皇=ほむたのすめらみこと」(日本書紀)で「鞆=とも」には『ほむた』の読みもあり、「ほむた」は「とも」の古語であり、応神天皇は諡号もまた「鞆」に由来するものということが言える。
これまでを踏まえると、瓦に刻まれた三つ巴は「水の渦巻き」に由来するもの、太鼓に描かれた三つ巴は「稲光」に由来するもの、神社で見られる三つ巴は「八幡信仰」に由来するものとに大まかに分類ができるのかもしれません。「大太鼓」とは、その雅楽において用いられる巨大な膜鳴楽器(太鼓)をいう。大陸文化を色濃く残す独特の外観を持つことで知られ、「火焔宝珠」を象った吊り枠台を含めれば、その全長は約7mにも及び、左右一対で設置されることが一般的である。
「雅楽」とは、古代中国圏の宮廷儀式や儒教祭祀などで催された優雅で洗練された楽舞(音楽と舞)の一群にその端を発するものである。日本には5世紀ごろより渡来が始まり、やがて朝廷に専門機関が設置されるほどの手厚い保護がなされ、古代・中世期には、宮中のみならず四天王寺・東大寺・興福寺といった巨大寺院においても盛んに催されたことから、当時は非常に大きな社会的影響力を持った芸能・芸術だった。
宮中・貴族社会において、巴文様が服飾・調度・美術工芸品などの図柄に広く用いられ、伝統文様の一つとして重きをなすようになったのは、雅楽の大太鼓が少なくない影響を与えたと見なされている。「高野山阿弥陀聖衆来迎図(国宝)」に描かれる大太鼓の装飾がやはり巴紋となっており『春日権現験記絵』『前九年合戦絵巻』『年中行事絵巻』などといった絵巻物作品に頻繁に登場することが確認されている。
また、巴文様(三つ巴紋)は『牛車=ぎっしゃ』の文様としてもいち早く取り入れられた。平安当時、貴族が日常の移動手段に用いた牛車には、その所有者を自他がひと目で判断できるよう、自家や個人にちなんだ文様を大きく標して「識別子」とする習わしが存在した。近衛家の「牡丹」紋、徳大寺家の「木瓜」紋、花山院家の「杜若」紋、日野家の「鶴丸」紋あたりがよく知られる例である。
「三つ巴」の文様は、中央貴族でも屈指の名門である『西園寺家』が牛車に用いられた。その他、公家による三つ巴(系)の家紋の使用は、西園寺家庶流の橋本(尾長巴)・小倉(右三つ巴)・大宮(三つ巴)・山本(右三つ巴)の各家に、高倉流藤原氏・堀河家庶流の樋口家(釣巴)などが知られている。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
応神天皇が「生まれながらの武神」とされたのは「鞆を携えて生まれてきた」または「出生時に腕が鞆のように盛り上がっていた」ことに由来され「弓矢=武の象徴」という、武に対する日本古来の保守的価値観が土台になっていると言える。「生まれながらの武神」と称された応神天皇と同一視されることもあり『弓矢八幡』の別称でも知られている。
応神天皇は、別名に「大鞆和気命=おおともわけのみこと」(古事記)を持ち、これはこの鞆にまつわるエピソードに由来した。また、「諡号=しごう」(崩御後のおくり名)は「誉田天皇=ほむたのすめらみこと」(日本書紀)で「鞆=とも」には『ほむた』の読みもあり、「ほむた」は「とも」の古語であり、応神天皇は諡号もまた「鞆」に由来するものということが言える。
これまでを踏まえると、瓦に刻まれた三つ巴は「水の渦巻き」に由来するもの、太鼓に描かれた三つ巴は「稲光」に由来するもの、神社で見られる三つ巴は「八幡信仰」に由来するものとに大まかに分類ができるのかもしれません。「大太鼓」とは、その雅楽において用いられる巨大な膜鳴楽器(太鼓)をいう。大陸文化を色濃く残す独特の外観を持つことで知られ、「火焔宝珠」を象った吊り枠台を含めれば、その全長は約7mにも及び、左右一対で設置されることが一般的である。
「雅楽」とは、古代中国圏の宮廷儀式や儒教祭祀などで催された優雅で洗練された楽舞(音楽と舞)の一群にその端を発するものである。日本には5世紀ごろより渡来が始まり、やがて朝廷に専門機関が設置されるほどの手厚い保護がなされ、古代・中世期には、宮中のみならず四天王寺・東大寺・興福寺といった巨大寺院においても盛んに催されたことから、当時は非常に大きな社会的影響力を持った芸能・芸術だった。
宮中・貴族社会において、巴文様が服飾・調度・美術工芸品などの図柄に広く用いられ、伝統文様の一つとして重きをなすようになったのは、雅楽の大太鼓が少なくない影響を与えたと見なされている。「高野山阿弥陀聖衆来迎図(国宝)」に描かれる大太鼓の装飾がやはり巴紋となっており『春日権現験記絵』『前九年合戦絵巻』『年中行事絵巻』などといった絵巻物作品に頻繁に登場することが確認されている。
また、巴文様(三つ巴紋)は『牛車=ぎっしゃ』の文様としてもいち早く取り入れられた。平安当時、貴族が日常の移動手段に用いた牛車には、その所有者を自他がひと目で判断できるよう、自家や個人にちなんだ文様を大きく標して「識別子」とする習わしが存在した。近衛家の「牡丹」紋、徳大寺家の「木瓜」紋、花山院家の「杜若」紋、日野家の「鶴丸」紋あたりがよく知られる例である。
「三つ巴」の文様は、中央貴族でも屈指の名門である『西園寺家』が牛車に用いられた。その他、公家による三つ巴(系)の家紋の使用は、西園寺家庶流の橋本(尾長巴)・小倉(右三つ巴)・大宮(三つ巴)・山本(右三つ巴)の各家に、高倉流藤原氏・堀河家庶流の樋口家(釣巴)などが知られている。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。