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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
成道山松安院大樹寺
2026年02月25日
大樹寺を創建した松平四代親忠は、德川家康公の祖父松平清康の曽祖父である。松平氏は室町時代に三河国(現在の愛知県東部)で勢力を拡大しており、松平親忠は、その分家である安祥松平家の当主であった。しかし、文正二年・応仁元年(1467年)、明応二年(1493年)の井田野合戦で近隣の豪族らを破り、本家をしのぐ有力武家になった。
松平親忠は果敢に闘った一方、井田野合戦の戦死者を敵味方の区別なく弔うため、文明七年(1475年)に大樹寺を創設した。松平親忠が明応十年・文亀元年(1501年)に没すると、その亡骸は大樹寺に葬られ、この寺が安祥松平家の菩提寺となった。松平親忠の子孫である德川家康公が江戸幕府を開いてからは、德川将軍家の菩提寺にもなり、歴代德川将軍の等身大位牌や、德川家康公が七十三歳のときの木像が安置されている。
登誉上人である大樹寺の十三代住職は、浄土宗一心院(京都市東山区)で修業を経て、大樹寺住職になった。この頃、德川家康公は、駿河国(現在の静岡県中部、北東部)の有力武将である今川義元のもとで人質生活を送っていた。今川義元は、永禄三年(1560年)織田信長の勢力圏だった尾張国(現在の愛知県東部)へ侵攻した桶狭間の戦いで、德川家康公は今川軍として参戦したが、織田信長軍の急襲を受けて今川義元が討ち取られてしまった。
今川義元が討たれ、人質ではなくなった德川家康公は、三河国の岡崎城へ帰還したが、岡崎城は敗走してきた今川軍の兵が占拠されていた。大樹寺に伝わる話では、德川家康公は岡崎城に入れず、大樹寺にわずかな近臣を連れて逃げ込んだとされる。その大樹寺も織田軍の追手に囲まれ、德川家康公はもはやこれまでと先祖の墓前で自害を決意する。
住職の登誉上人は、浄土宗の教え「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)を説いて思いとどまらせたと伝わっている。「厭離穢土欣求浄土」とは「汚れた現実の世界を離れて、清浄な仏の国に生まれ変わることを願い求める」という意味。登誉上人は德川家康公に「争いのない世を実現し、豊かな国を築くことがあなたの使命」と諭した。釈迦入滅地の沙羅双樹にちなんだものとの説もある。
このとき登誉上人は、德川家康公の先祖である松平親忠が寺号に用いた大樹は征夷大将軍の別称であり、松平家から将軍を輩出する願いが込められているのだと語り、德川家康公を励ました。また、大樹寺の怪力の僧「祖洞」が、寺門のかんぬきを武器に奮戦し、織田軍の追手を撃退したとも言われている。
この助言に德川家康公は奮い立ち、本拠地の岡崎城を取り戻すと、この城から天下取りへの第一歩を踏み出した。その後、德川家康公は、戦旗に「厭離穢土欣求浄土」の8文字を記して、生涯の指針としたと言われている。
元和元年(1615年)、德川家康公は墓所の再興を命じた。元和二年(1616年)4月17日、家康公の死去に際しては、十七代住職の了譽が同席した。家康公の死後は遺言に従い、位牌が収められた。以降、歴代德川将軍の等身大位牌が大樹寺に収められた。現存する位牌は、尾張藩主德川義直公が寛永五年(1628年)に調進したものと伝えられている。
甲賀百人組に所属していた遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。甲賀武士である「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行い、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮などの参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。
※画像:山門 寛永十八年(1641年)三代将軍德川家光公建立(県指定文化財)
【 大樹寺の概要 】
山 号:成道山
院 号:松安院
寺 号:大樹寺
宗 派:浄土宗
寺 格:勅願寺、松平宗家・德川将軍家菩提寺
備 考:三河三十三観音3番、三河新四国八十八ヶ所霊場21番・22番(成道閣)
住 所:愛知県岡崎市鴨田町字広元5番地1
■ 大樹寺
成道山松安院。文明七年松平四代親忠公が勢誉愚底上人を開山として創建する。松平氏德川家代々の菩提寺。家康公が十九歳のとき、登誉上人の「厭離穢土、欣求浄土」の念仏の教えをうけ、それを旗印とされた。境内には、重文多宝塔、将軍御成の間、大名控室に画かれた襖絵、三代将軍建立の山門、総門、鐘楼、岡崎史跡の松平八代および家康公の墓などがある。69年岡崎市家康公墓碑建設委員会(委員長:太田光二市長)によって、松平八代墓の隣に徳川家康の墓碑建立、73年三門修復、75年収蔵庫完成、00年韓国仏国寺友好提携(東大寺に次いで2番目)、05年堀田岳成大樹寺第63世貫主就任(名古屋市東区の高岳院)、16年中村康雅大樹寺第64世貫主就任(静岡市の實相寺)。
松平親忠は果敢に闘った一方、井田野合戦の戦死者を敵味方の区別なく弔うため、文明七年(1475年)に大樹寺を創設した。松平親忠が明応十年・文亀元年(1501年)に没すると、その亡骸は大樹寺に葬られ、この寺が安祥松平家の菩提寺となった。松平親忠の子孫である德川家康公が江戸幕府を開いてからは、德川将軍家の菩提寺にもなり、歴代德川将軍の等身大位牌や、德川家康公が七十三歳のときの木像が安置されている。
登誉上人である大樹寺の十三代住職は、浄土宗一心院(京都市東山区)で修業を経て、大樹寺住職になった。この頃、德川家康公は、駿河国(現在の静岡県中部、北東部)の有力武将である今川義元のもとで人質生活を送っていた。今川義元は、永禄三年(1560年)織田信長の勢力圏だった尾張国(現在の愛知県東部)へ侵攻した桶狭間の戦いで、德川家康公は今川軍として参戦したが、織田信長軍の急襲を受けて今川義元が討ち取られてしまった。
今川義元が討たれ、人質ではなくなった德川家康公は、三河国の岡崎城へ帰還したが、岡崎城は敗走してきた今川軍の兵が占拠されていた。大樹寺に伝わる話では、德川家康公は岡崎城に入れず、大樹寺にわずかな近臣を連れて逃げ込んだとされる。その大樹寺も織田軍の追手に囲まれ、德川家康公はもはやこれまでと先祖の墓前で自害を決意する。
住職の登誉上人は、浄土宗の教え「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)を説いて思いとどまらせたと伝わっている。「厭離穢土欣求浄土」とは「汚れた現実の世界を離れて、清浄な仏の国に生まれ変わることを願い求める」という意味。登誉上人は德川家康公に「争いのない世を実現し、豊かな国を築くことがあなたの使命」と諭した。釈迦入滅地の沙羅双樹にちなんだものとの説もある。
このとき登誉上人は、德川家康公の先祖である松平親忠が寺号に用いた大樹は征夷大将軍の別称であり、松平家から将軍を輩出する願いが込められているのだと語り、德川家康公を励ました。また、大樹寺の怪力の僧「祖洞」が、寺門のかんぬきを武器に奮戦し、織田軍の追手を撃退したとも言われている。
この助言に德川家康公は奮い立ち、本拠地の岡崎城を取り戻すと、この城から天下取りへの第一歩を踏み出した。その後、德川家康公は、戦旗に「厭離穢土欣求浄土」の8文字を記して、生涯の指針としたと言われている。
元和元年(1615年)、德川家康公は墓所の再興を命じた。元和二年(1616年)4月17日、家康公の死去に際しては、十七代住職の了譽が同席した。家康公の死後は遺言に従い、位牌が収められた。以降、歴代德川将軍の等身大位牌が大樹寺に収められた。現存する位牌は、尾張藩主德川義直公が寛永五年(1628年)に調進したものと伝えられている。
甲賀百人組に所属していた遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。甲賀武士である「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行い、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮などの参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。
※画像:山門 寛永十八年(1641年)三代将軍德川家光公建立(県指定文化財)
【 大樹寺の概要 】
山 号:成道山
院 号:松安院
寺 号:大樹寺
宗 派:浄土宗
寺 格:勅願寺、松平宗家・德川将軍家菩提寺
備 考:三河三十三観音3番、三河新四国八十八ヶ所霊場21番・22番(成道閣)
住 所:愛知県岡崎市鴨田町字広元5番地1
■ 大樹寺
成道山松安院。文明七年松平四代親忠公が勢誉愚底上人を開山として創建する。松平氏德川家代々の菩提寺。家康公が十九歳のとき、登誉上人の「厭離穢土、欣求浄土」の念仏の教えをうけ、それを旗印とされた。境内には、重文多宝塔、将軍御成の間、大名控室に画かれた襖絵、三代将軍建立の山門、総門、鐘楼、岡崎史跡の松平八代および家康公の墓などがある。69年岡崎市家康公墓碑建設委員会(委員長:太田光二市長)によって、松平八代墓の隣に徳川家康の墓碑建立、73年三門修復、75年収蔵庫完成、00年韓国仏国寺友好提携(東大寺に次いで2番目)、05年堀田岳成大樹寺第63世貫主就任(名古屋市東区の高岳院)、16年中村康雅大樹寺第64世貫主就任(静岡市の實相寺)。