遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

伊予国西條藩 松平左京大夫上屋敷

2026年01月16日
遠藤宗家が所属していた甲賀百人組は、德川家康公が江戸城に入府してから青山百人町にあった青山甲賀屋敷(現在の表参道駅にある善光寺周辺に位置する)、千駄ヶ谷甲賀屋敷(現在の千駄ヶ谷にある国立競技場)、青山権田原の鉄砲演習場を幕府から拝領した。

青山や麻布と地続きのこの土地の周辺には、大名や旗本の武家屋敷が立ち並ぶとともに、南方・西方には渋谷村の百姓地が広がっていた。武家地と百姓地の接点であり、江戸市中と近郊農村の境にあった。1837年(天保8年)伊予西条松平家は、ここから南に地続きの下渋谷村百姓地を囲い込み抱屋敷とした。

現在の青山学院大学(東京都渋谷区)の敷地は、1856年(安政3年)時点で「青山百人町、下渋谷村」の上屋敷4万坪と下渋谷村の抱屋敷4738坪の他、上渋谷村に下屋敷一万坪と抱屋敷1905坪、麻布本村に家来の借地住宅72坪を有した。「青山百人町、下渋谷村」は、この土地が青山と渋谷の境にあったことにより、伊予国西條藩の松平左京大夫上屋敷と遠藤宗家の青山甲賀屋敷と隣接していた。

德川御三家の一つ紀州和歌山藩主の徳川頼宣公の二男で、德川家康公の孫にあたるのが伊予西條藩初代藩主の松平頼純公である。紀州において京職である左京大夫に任ぜられ5万石を分知されていたが、一柳家の改易から 西條藩は天領となり5年を経た1670年(寛文10年)2月 紀州藩の支藩として新たに伊予西條藩3万石(合力米2万石と併せ5万石)を与えられ、紀州徳川家 (紀州藩主)が途絶えた場合に備えた藩であった。

歴代西條藩主は、江戸定府・大広間詰という高い格式を与えられ、定府大名であり参勤交代の義務はなく、藩主と家族・定府の家臣は、ほとんど江戸の上屋敷で暮らしていた。藩主の入国はまれで、生涯を通じて領国に足を踏み入れない藩主もみられたが、松平頼純初代藩主の入国は歴代藩主の中で最多の5回(寛文10年、元禄7年、元禄11年、元禄15年、宝永5年)に及ぶ。

画像:青山渋谷絵図


■ 松平頼純
江戸時代前期から中期にかけての大名。伊予西条藩の初代藩主。官位は従四位下・権少将、左京大夫。紀州藩主德川頼宣公の三男として誕生。初代将軍德川家康公は祖父。兄は德川光貞公。八代将軍德川吉宗公の叔父、德川家光公や德川光圀の従弟にあたる。1645年(正保2年)三代将軍德川家光公に御目見、1654年(承応3年)従四位・少将・左京大夫、1670年(寛文10年)伊予西条3万石を与えられ大名、参勤交代をしない定府大名、1711年(正徳元年)死去(享年71・満70歳没)。家督は五男の頼致公。

■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。