遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

大本山増上寺

2025年09月17日
甲賀百人組に所属していた遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。甲賀武士である「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行い、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。

浄土宗開宗八百五十年を迎えた浄土宗寺院の大本山増上寺は、三縁山広度院と号し、浄土宗七大本山の一つである。増上寺の創建年代等は不詳ながら、宗容大僧都が真言宗光明寺と称して建立、麹町貝塚にあったとされる。明徳4年(1393年)に、聖冏上人の教化を受けた酉譽上人聖聡が真言宗光明寺を浄土宗に改め、三縁山増上寺と改号して開山した。日比谷へ移転を経て、慶長3年(1598)当地へ移転、江戸時代には寛永寺と共に徳川将軍家の菩提所となり、寺領10745石の御朱印状を拝領、関東十八檀林の筆頭として隆盛した江戸三十三観音霊場21番札所である。

■ 芝區誌による増上寺の縁起
増上寺 芝公園第二號地一番
近世以降芝の名が聞えてゐるのは増上寺の爲めだと言つても過言ではない。いはば芝に於ける宗教文化の中心で、百七十箇寺の中最大の寺院である。浄土宗の關東總本山として所謂十八檀林(僧源譽の時關東浄土宗の大寺院十八箇所を檀林と定めた)の上に位し、三縁山廣度院と號する。

本寺の創建年代は詳かでないが、往時、麹町貝塚にあつた頃は、光明寺といつて、真言宗であつた。此増上寺の前身である光明寺の開祖は宗容大僧都と傳へられ、僧都は白山をはじめ北國東國を遍歴して各所に梵閣を建てた。光明寺の其一つで、七堂伽藍の整美した一大靈場であつたが、數度の戦争に或は陣所となり、或は破壊せられて、久しい間荒れるに任せてあつた。しかも教燈は曾て消えず、建武頃までに數十代を経たが、酉譽上人聖聡(初め胤明といふ、桓武天皇の後胤千葉介氏胤の子。母は新田左中将義貞の女。永享十二年寂)之を再興し、北朝至徳二年浄土宗に改め、明徳四年始めて増上寺と號するに至つた。

之に關して「江戸名所記」は、酉譽は、もとこれ真言の宗派を汲んで、秘密金剛の妙用をあふぎ、遍照舎那の實際をもとめ、しかもまた兼ては浄土念仏の風儀を學して、主心即一の窓のまへには、五念四修の日をもてあそび、事理倶頓のはやしの中には實報受用の花を詠じて、武州江府の貝塚の台光明寺に住せらる。そのころをひ人王百一代後小松院の御宇なり。時に至徳二年きのとの丑の夏光明寺にして論議あり。酉譽上人能化として所化のともがら問者答者たがひに法門の扉をひらき、疑義の關をくだかんとす。

爰に聖冏和尚は、托鉢の體にて、かの講席法門の場に立て、つらつらこれを聞て、莞爾と笑て立かへる。酉譽上人此よしを見て、みづから座を立て、跡を追てたづね行給ふに、浅草の邊にして追つめ、つゐにその笑をふくみて退く事を問給ふに、冏公その故をこたへらる。たがひに問答ありて、浄土の奥義をのべ給ふに、酉譽上人ふかく法味をあぢはい、豁然としてさきの悪念名刹の鋒鋩を折て、たちまちに真言宗をすててひとへに浄土宗に歸し、すなはちわが寺光明寺をあらためて、三縁山増上寺と號し、聖冏上人の弟子となりて、一心金剛の血脈をうけ給ひけり。と記してゐる。

「三縁山志」には次ぎの如く書いてある。
人皇百一代後小松院御宇至徳二丑年酉譽上人浄土宗に改め、年廿八歳にして、明徳四酉年十一月當山を興隆し、般舟蓮社の談法論場とし、四方の雲水をあつめ、輪下に講演し、自他宗の碩徳と招請し、不斷法問の伽藍とす。

斯くの如くにして三縁山廣度院増上寺は誕生し、其開山を大蓮社酉譽上人聖冏和尚とする。さて此三縁山増上寺の名称は如何にして起つたかといふに、善導大師の「観経疏定善義」二十八に由来してゐる。即ち同書に「衆生起行。口常稱佛。佛即聞之。故名親縁也。」とあり、又「衆生願見佛。即佛應念。現在目前。故名近縁也。」とあり、更に「衆生稱念佛。即除多功罪。故名増上縁也。」とあつて、親縁、近縁、増上縁を説いてゐるが、それから寺名が出たのである。

其後約二百年を経て、天正十一年、第十二世中興の開基貞蓮社源譽上人存應和尚(観智國師、俗称由木、元和六年寂)の時、徳川氏一門の菩提寺となつた。此理由に就いて「三縁山志」から抄記すれば、永禄の初め存應和尚は諸國の知識に遍参し、三河國に至つて、智徳院慈行宗門の英匠として聞えた大樹寺の登譽上人に随従して、三、四年の間侍座聴法せられたが、其時家康は存應の行状解慧が卓然として群を抜いてゐるのを聞き、小田原陣の時之を引見して、面り其人物のすぐれてゐるのを見て、敬慕の念措く能はざるものがあつた。

然るに天正十八年江戸に入つて、寺は増上寺、住持は源譽といふ嘉名であること、開山が新田に縁のあること、三縁山といふ山號の三河に縁のある山といふ意に採れることなどに興味を牽いたのみならず、親氏、泰親、信光と代々信仰の篤い宗門であるところから、菩提寺を當山に定めたといふことである。

其後増上寺は火災に逢て一旦日比谷邊りに移されたが、慶長三年八月再び移轉して、現在の地に巨刹を構ふる事になつた。何故に芝の地に遷されたか。其理由は明かでないが、憶ふに、増上寺は将軍家の菩提所なるが故に、災害に罹り易い市街地よりも、幽邃閑寂で佳景に富み、且つ江戸城にも近い地を選んだものと思はれる。諸堂の造營の竣成したのは慶長十年であるが、其宏壮は寛永寺に亞いだ。

其門は赤門又は御成門と言ひ、西北角の一門は、涅槃門又は黒門と、西南の棚門は赤羽門と稱した。しかし、現今はいづれも原状をとどめてゐない。前門の内更に山門あり、其内に本堂があつたが、本堂は明治六年二月大教院となり、同年十二月三十一日耶蘇教信者の放火に罹つて、本堂鐘楼共に烏有に歸した。十二年再建に着工し三十年六月ほぼ落成したが、四十一年再び火災に罹り、現本堂は此後に再築したものである。略〃竣工してはゐるが、内陣などはまだ完成してゐない。本堂はもと南靈屋入口の廣場にあつたが、此火災以後現在の位置に還されたものである。

本堂正面に掲げてある「増上教寺」の扁額は一品有栖川熾仁親王殿下の書である。空に聾える甍の波、抱へきれぬ巨柱の林、其堂宇の輪奐は帝都に於いても有数である。此處には浅草寺の如き繁華雑沓はないが、木の間に聞ゆる読経の聾や木魚の音が日ねもす絶ざる参詣者に随喜の涙を流させ、法悦に浸らせる浮土の境地をつくってゐる。

【 大本山増上寺の概要 】
山 号:三縁山
院 号:広度院
寺 号:増上寺
宗 派:浄土宗
葬 儀:増上寺大殿、光摂殿、慈雲閣
備 考:浄土宗江戸四ヶ寺触頭、江戸三十三観音霊場20番札所
住 所:東京都港区芝公園4-7-35


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。