遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

富士山本宮浅間大社

2025年05月01日
浅間大社の由緒は、寛政年間(1789年-1801年)に大宮司の富士民済により記された社伝「富士本宮浅間社記」に記載されている。同記によると、第十一代垂仁天皇3年(前27)に富士山麓の山足の地にて祀られていた。

景行天皇の時代、日本武尊は駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭った際に浅間大神に祈念して難を逃れ、賊徒を平定した後に山宮(現山宮浅間神社)に磐境を設け浅間大神を祀ったことが起源である。のち大同元年(806年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在の大宮の地に社殿を造営したと伝える。なお同記によると、元々は大宮の地は「福地神」の社地であったが、山宮より浅間神が移るにあたってこちらも遷座した(現富知神社)。

朝廷の崇敬を受け、「延喜式神名帳」では「駿河国富士郡 浅間神社 名神大」と記載されて名神大社に列した。また駿河国一宮としても崇敬された。駿河国府の近くには、浅間大社から勧請を受けて浅間神社(現静岡浅間神社の一社)も創建された。

公家や武家からの崇敬を受け、後醍醐天皇の土地の寄進のほか、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われた。鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や北条義時の社殿の造営といった当時の実力者からの崇敬を受けた。

社伝「富士本宮浅間社記」によると、源頼朝が富士の巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことが浅間大社の流鏑馬の起源とされる。南北朝時代には足利尊氏や足利直義による社領の寄進、今川範氏や今川泰範らの土地の安堵や諸役の免除などが行われた。武田信玄は願状を捧げ、その後武田勝頼は天正4年(1576年)から造営を進め天正6年(1578年)に遷宮を行った。豊臣秀吉も社領寄進の朱印状を発布している。

徳川家康公は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営した。慶長14年(1609年)には、富士山頂における散銭取得の優先権を得た。その後の歴代将軍も祈祷料・修理料の寄進を行っており、第四代将軍徳川家綱公は金1千両を寄進、第五代将軍徳川綱吉公は銀50枚・金2千両、後にも金700両を寄進、第十代将軍徳川家治公は銀300枚を寄進した。

その後も徳川家の歴代将軍による崇敬が絶たれることは無かった。また幕府により祈祷が命じられることがあり、宝永4年(1707年)には富士山焼祈祷により銀100枚を拝領し、祈祷は富士氏(富士大宮司・公文・案主)と別当が行っている。安永8年(1779年)には、三奉行による裁許により富士山の8合目以上が浅間大社へ寄進された。

「富嶽之記」享保18年(1733年)では、浅間大社の様子を「是冨士山根本の浅間也、木花開耶姫を祭る、神主大宮司といふ、社僧二十院あり、境内桜多シ、神の愛木也、社ノ東に垢離場有り」と記している。

【 概要 】
御祭神:木花之佐久夜毘売命(浅間大神)
神 体 :富士山(神体山)
相 殿:瓊々杵尊
相 殿:大山祇神
御神徳:火難消除・安産・航海・漁業・農業・機械等の守護
住 所:本宮;静岡県富士宮市宮町1-1、奥宮;富士山頂上


■ 富士山本宮浅間大社
静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮。旧社格は官幣大社で、神社本庁の別表神社。社家は富士氏。浅間神社の総本社。本宮は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つとして「富士山本宮浅間大社」の名称。富士山頂の奥宮および末社の久須志神社が「富士山域」の一部である「山頂の信仰遺跡群」の一部として世界文化遺産に登録。