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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
德川達孝 大正天皇侍従長
2025年02月24日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家は、大正天皇の侍従職。曽祖母である栗原セイは、大正天皇の貞明皇后女官職として側近奉仕に従事した。
田安家第五・八代当主の德川慶頼の四男である德川達孝田安徳川家第九代当主は、德川慶喜第十五代将軍の隠居に伴い、御三卿の一つである田安家の德川家達第十六代当主が德川宗家を継承したことにより、德川家達公から偏諱を与えられ達孝(幼名は群之助)と名乗った。
德川達孝田安徳川家第九代当主は、大正11年(1922年)3月22日、大正天皇の侍従長に就任し、昭和2年(1927年)3月3日に退任した。その他、学習院評議員や日本弘道会長を歴任した。
1869年(明治2)7月、宮内省の設置とともに侍従の官制も新しく制定され、正五位相当官となった。それまで天皇の周辺は、女官と一部の公卿によって固められていたが、そうした弊習を一新する宮廷改革の意図もあり、公家以外の、士族が選任された。
75年侍講、77年侍補の制度ができ、侍従長、侍従とともに天皇の諸用、教養に奉仕することになった。86年改正宮内省官制で侍従長は勅任、侍従は奏任の官となる。現在は内閣府宮内庁の職員で、侍従長、侍従次長、侍従の3階級、および皇太子に近侍する東宮侍従がある。
遠藤宗家の先祖である甲賀武士が所属した「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。
組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
德川将軍家直参御目見得(旗本家)の由緒により、遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家は大正天皇の侍従職として、德川達孝侍従長にお仕えした。德川達孝侍従長は、昭和15年(1940年)芝区三田綱町(現:港区三田)の邸宅2,711平方メートルを慶應義塾に売却した後に、遠藤宗家千駄ヶ谷甲賀屋敷、甲賀稲荷神社にほど近い、実兄である德川家達第十六代当主(公爵家)が構える千駄ヶ谷本邸の別棟で暮らされた。
【 德川宗家公爵邸 】
宗家本邸:東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現:渋谷区千駄ヶ谷)
本邸坪数:10万坪
本邸設計:曾禰中條建築事務所(曽祢中条)
本邸施工:石井組
本邸工期:大正15年8月−昭和3年5月
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
田安家第五・八代当主の德川慶頼の四男である德川達孝田安徳川家第九代当主は、德川慶喜第十五代将軍の隠居に伴い、御三卿の一つである田安家の德川家達第十六代当主が德川宗家を継承したことにより、德川家達公から偏諱を与えられ達孝(幼名は群之助)と名乗った。
德川達孝田安徳川家第九代当主は、大正11年(1922年)3月22日、大正天皇の侍従長に就任し、昭和2年(1927年)3月3日に退任した。その他、学習院評議員や日本弘道会長を歴任した。
1869年(明治2)7月、宮内省の設置とともに侍従の官制も新しく制定され、正五位相当官となった。それまで天皇の周辺は、女官と一部の公卿によって固められていたが、そうした弊習を一新する宮廷改革の意図もあり、公家以外の、士族が選任された。
75年侍講、77年侍補の制度ができ、侍従長、侍従とともに天皇の諸用、教養に奉仕することになった。86年改正宮内省官制で侍従長は勅任、侍従は奏任の官となる。現在は内閣府宮内庁の職員で、侍従長、侍従次長、侍従の3階級、および皇太子に近侍する東宮侍従がある。
遠藤宗家の先祖である甲賀武士が所属した「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。
組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
德川将軍家直参御目見得(旗本家)の由緒により、遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家は大正天皇の侍従職として、德川達孝侍従長にお仕えした。德川達孝侍従長は、昭和15年(1940年)芝区三田綱町(現:港区三田)の邸宅2,711平方メートルを慶應義塾に売却した後に、遠藤宗家千駄ヶ谷甲賀屋敷、甲賀稲荷神社にほど近い、実兄である德川家達第十六代当主(公爵家)が構える千駄ヶ谷本邸の別棟で暮らされた。
【 德川宗家公爵邸 】
宗家本邸:東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現:渋谷区千駄ヶ谷)
本邸坪数:10万坪
本邸設計:曾禰中條建築事務所(曽祢中条)
本邸施工:石井組
本邸工期:大正15年8月−昭和3年5月
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。