ニュースリリース|2015年

遠藤 潔 本邸

2015.09.10
遠藤 潔邸・別邸は、東京都目黒区上目黒に位置しており、人材交流・情報交換の活動場所としている。

当地は、天正18年(1590)徳川家康公が江戸に入府の後、目黒地域は荏原郡に属し、三田、上目黒、中目黒、下目黒、碑文谷、衾の六か村に分かれており、幕府直轄地や芝の増上寺、東光寺、円融寺の寺領旗本神谷氏領などが複雑に入り組んでいた。

目黒区不動は将軍、江戸庶民の信仰を集め、門前町が賑わったといわれている。江戸の発展に伴って近郊目黒区の地域は、激増した武家や商工人の消費生活をまかなう野菜の供給地として江戸の町と密接なつながりを持ちつつ発展した。

幕末には駒場野の鷹狩場はしばしば幕府の軍事調練や砲術訓練の場となっていた。 慶応3年(1867)徳川慶喜の大政奉還により目黒区を含む地域は武蔵県となり、近代日本の幕が開かれ、

明治2年品川県に、明治4年東京府の管轄となり、明治11年には荏原郡に属する。明治7年に八雲小学校、続いて菅刈・下目黒区・碑小学校が設置され、 明治22年に六か村が目黒区村、碑衾村の二村に統合。明治26年人口は目黒区村3701人、碑衾村3245人で農家が大部分を占めたが、明治29年 ビール工場、40年に競馬場が 開設され、都市化への発展のいとぐちが開かれた。

現在では、区内に12の外国大使館が置かれ国際交流も盛んに行わる近代住宅都市となった。
特に最近では、渋谷区のビットバレー(情報技術産業の集積基地)の影響もあり、インターネット・IT産業の起業が目立っている。


●上目黒
目黒区北部に位置する。町域北部は目黒区青葉台・東山にそれぞれ接する。東部は渋谷区猿楽町に接する。南部は目黒区中目黒・祐天寺・五本木にそれぞれ接する。西部は世田谷区池尻・下馬にそれぞれ接する。東部では、山手通りが南北に縦断している。また南部には駒沢通りが通っている。西部には野沢通りが通っている。ほかに地域東部には目黒川が流れている。東部の上目黒三丁目には東急東横線・地下鉄日比谷線の中目黒駅があり、駅周辺は駅前の商業地が広がっている。また2003年からは目黒区役所も上目黒二丁目に置かれている。他は主に住宅地となっている。

*ニュースリリースの記事内容は発表日現在の情報です。
予告なしに変更され、ご覧になった日と情報が異なる可能性もありますので、あらかじめご了承下さい。

ページの上部へ