神保町の名前は、江戸時代の元禄2年(1689年) 幕臣の武将である神保長治(旗本)が神田小川町(現在の神保町2丁目)に邸地995坪を賜ったことに由来していると言われている。
神保氏は群馬県が地元。いまでもその名を残しているのが、高崎市群馬県多野郡の"吉井町神保"という地名。しかし、"よしいちょうじんぼ"と最後に"う"を付けないのが正式な読み方である。
当時は神保家の大屋敷前を通っていた道を、通称「神保小路」と呼ばれていた。
江戸時代が終わり明治になると、多くの武家屋敷は新政府によって没収された。
そして明治5年、国が正式にこの辺りの町名を決める際に、神保大屋敷・神保小路にちなむ"神保"を活かし、"神保町"とした。
周りの武家地を合わせ、南・北・表 ・裏神保町が誕生した。
そして昭和になり再編成され、猿楽町、今川小路なども吸収して現在の神保町 へと発展したのである。
神保町が本の街として有名になったのは、第一次世界大戦後の大正期 から 昭和初期にかけてである。
その背景には「神田に所在する私立大学の拡張〜一般に中間層、知識階級の大量 創出、その上に立つ出版業の発展」(『千代田区史』)があった。
本屋の店構えは、日差しを避けるため、すべて北向きに位置している。
辞書類の出版で知られる三省堂も明治14年創業の古本屋からはじまり、当時、 大型で高額だった辞書を携帯に便利なように小型化して出版したところ印刷が 間に合わないほど売れ、現在の出版社の基盤を創ったのである。
大正2年、やはり古書店として出発した岩波書店は、正札販売を掲げ、それまで客と店員のかけひきで曖昧に決められていた書籍の価格を正札通りの価格で販売する方法で注目を浴びた。
岩波書店では客から書籍が他の書店より高いと言われると、売らずに奥に引っ込め、他店の価格を調べ、それより安い正札をつけて店に並べた。
岩波の正札販売は次第に客の信頼を集めて、やがて正札販売は古書店街 に広がった。
●神保長治
新五左衛門。江戸期の旗本。元禄年間(1688-1704)の図に名がある。家康の墓所日光山の管理を行っていた。1712年佐渡奉行となる。
1715年没。