ニュースリリース|2015年

太田資暁 道灌公 十八代子孫

2015.09.01
遠藤 潔 遠藤宗家第十八代 父方祖母従兄弟である太田資和祖先の太田道灌は、文武両道に秀でた武将として名をはせ、東京発展の礎を築いた。

慶長5年(1600年)に東西両軍が激突した天下分け目の関ヶ原の合戦。東軍の総大将、徳川家康が合戦前日に陣を敷いた美濃赤坂の小山は現在、地元で「お勝山」と呼ばれる。戦勝に気をよくした家康が岡山から改名したと伝えられている。「お勝」は、家康最愛の側室の名でもある。合戦のたび家康に従い、関ヶ原後、家康の命で「お梶」から改めたという。

このお勝こそ、太田道灌と家康を結びつけた女性である。家康は豊臣秀吉の命で関東入りした後、名家出身者らを召し上げた。道灌から4代目の重政もその1人。お勝は重政の妹に当たる。その後、お勝は家康の11子で初代水戸藩主・頼房の養母になったが、その縁で重政の子・正重から代々、同藩の家老職は太田家が務めた。

神奈川県鎌倉市扇ヶ谷の浄土宗東光山英勝寺。家康没後の寛永13 年(1636年)、お勝が英勝院と名乗り、道灌の生誕地とも屋敷跡ともされる場所に創建した。市内唯一の尼寺で、歴代の庵主は長らく水戸徳川家の息女が務めた。

この水戸太田氏の系統で、太田資暁 道灌公18代目子孫は、東京海上火災保険専務を経て、東京海上日動あんしん生命社長を歴任した。太田資暁 道灌公18代目子孫が長年勤務した東京海上火災保険では、後輩に水戸徳川家の当主が居られた。歴史の巡り合わせの妙を窺わせる興味深いエピソードである。


●太田道灌
室町時代の武将。武蔵国守護代。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城した武将。

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